コンテンツ評価の物差しは「共有」へ

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 アマの表現物がプロの表現物に勝つことができるのだろうか。今日、プロのカメラマン、ライター、ミュージシャンにこの問いを投げかければ、ほとんどのプロ
は「アマに負けるわけはない」と答える。もちろん「勝てそうもないです」と気弱なことを言っているようではプロ失格なので、こうした答えでもちろん構わな
い。ただ本当に今後もそうした時代が続くのだろうか。
 多摩大学の公文俊平教授は、今日のプロによるアマチュア軽視と同様の傾向は過去の時代の境目にも存在したと指摘する。中世から近代への移行期に農民を集
めた兵隊が作られたが、こうした兵隊は、日本では武士、ヨーロッパでは貴族に当初は「百姓を集めた兵隊に負けるわけがない」とばかにされていた。しかし銃
を装備した近代軍隊の戦いの中では、個々人の剣術の腕前はまったく意味がなかった。戦いのルールが、個人戦から銃を使った新しい形の団体戦に変わったので
ある。
 産業化の局面では、靴や洋服といった製品を手作りするギルドの親方が大量生産の靴や洋服を「女子供が作った物に負けるはずがない」とばかにした。ところが現在、われわれの身の周りは大量生産の製品であふれている。手作りの製品を探すほうが困難だ。
 今はまだ情報化社会に入ったばかり。これからより優れた表現のツールが次々と登場してくるだろう。そうしたツールの支援を得て、アマの作品はプロの作品に対し、量で凌駕し、質で肉薄するようになるのだろう。
 ただ古い物差し、古い競争のルールで見る限り、プロはプロである。頂点に君臨し続ける。一人対一人の戦いというルールであれば、やはり武術を極めた者の
勝利である。今日でも、空手のトーナメントでまったくの素人が勝ち残れる可能性はゼロに近い。同様に靴という製品の分野でも、価格という物差しを除外し、
芸術性や品質という物差しだけで計れば、今日でもプロの靴職人の製品に軍配が上がる。

▼表現物の物差しは「質」から「共有」へ


 

 表現物でも芸術性という物差しで計れば、今後もプロのクリエーターの勝利になるだろう。作家の浅田次郎さんは、ネット掲示板「2ちゃんねる」から生まれた小説「電車男」があまりに話題になったため、実際に読んでみたという。「作品としては非常にレベルの低いものだった」と語っている。
 ケータイ小説に関し、ITジャーナリストの佐々木俊尚さんはネットメディアCNETの「ソーシャルメディアとしてのケータイ小説」と題したコラムの中で次のように語っている。
 「本来、文学というのは、ひとりの孤高の作家がみずからの内面と向き合い、みずから作り上げた世界観と哲学を世間に問うという行為だった。だがケータイ小説は、書き手の側も、読み手の側も、自分たちがひとつの『空間』を共有していると信じ、その『空間』に寄り添うかたちで小説をコラボレーションによって完成させていく。文学が卓越した個人による営為であるのに対し、ケータイ小説は人々の集合知をメディア化したものである。
 そのようなとらえ方をすれば、ケータイ小説の文体が陳腐で下手くそで、同じようなステレオタイプ的なプロットに彩られているのも当然である。なぜなら陳腐でステレオタイプなものこそが、若い読者にとっては『リアル』であるからだ」。
 小説をコラボレーションする、とあるのは、作者がケータイ小説を書き進めながら出来た文章を次々とケータイサイト上で発表していく中で、読者からコメントが寄せられ、そのコメントを考慮して小説が変化していくというプロセスをケータイ小説が取るからである。
 佐々木さんの言うように、これまでの文学とケータイ小説はまったく違うものなのかもしれない。小説は個人が作りだす芸術であり、ケータイ小説は作者と読者、読者同士をつなぐ仲介物、メディアなのかもしれない。
 ケータイ小説は、身の周りで起こった楽しいこと、困ったこと、おもしろいこと、うれしいこと、悲しいことを、友人とおしゃべりするのと、同じような感覚を読者に与えてくれるのだろう。芸術というよりも、おしゃべりと同様に「人とのつながり」の1つの形なのだろう。小説に関しても新しい物差しが登場しているわけだ。芸術性という物差しではなく、おしゃべりのような意識の共有を持てるかという物差しだ。
 どうやら動画というメディアでも同様のようだ。コミュニケーション・デザイナーとして活躍する河野武さんは、マーケティング施策の中に積極的に動画を活用する一人だが、河野さんのブログ「smashmedia」の「ぼくは動画人ではない」という記事の中で「ぼくは『動画』ってくくりがどうもしっくりきてなくて、ぼくのやってるのは『ライブ』であって、極論、動画じゃくて音声だけのラジオでもかまわないとすら思ってるし、キモはチャット(というかリアルタイムな参加)にあるとも思ってるので『動画』じゃないよなあ」と語っている。
 もちろん動画を一方通行の情報伝達手段として活用するケースはまだまだ多いのだが、「参加」という側面に注目した使い方をする人も増えてきているようだ。
 天才靴職人の手作りの靴へのニーズが完全になくなっていないように、芸術性の高い小説へのニーズはなくならないだろう。しかし一方で、現実味がある「空間」を共有できる形のケータイ小説や動画へのニーズが強まっているのだ。
 小説や動画だけではない。あらゆる表現物に、人と人をつなぐ「空間」を作れるか、特定の感覚を共有できるか、という新しい物差しが登場しつつあるのかもしれない。
 アマチュアが作った新しい表現物を、芸術性、質といった物差しで評価しても仕方がない。「共有」「つながり」という新しい物差しで評価すべきなのである。

▼競争の形は個人戦から新しい形の団体戦に

 武芸の達人同士の争いなら、個人の技量が決め手になる。軍隊同士の衝突になれば、鉄砲、戦車などの武器が勝負を決める。個人の技という人間の力ではなく、武器というテクノロジーの力が重要になる。
 靴の場合も同様だ。一つ一つの靴の品質や収益率の競争ではなく、薄利多売でどれだけの利益を全体として上げることができるのか、というのが工業化社会の中での競争のルールである。個の競争ではなく、集合の競争だ。
 表現物の競争の形もまた変化しようとしている。人間の力が勝負を決める個々の表現物の間の競争ではなく、テクノロジーの力が勝負を決める無数の表現物の集合の勝負である。軍事化の時代も工業化の時代もそうであったように、情報化の時代にも、新しいテクノロジーを使った新しい形の団体戦が重要になるのである。

▼ロングテール時代でもビジネスに変化なし

 最近のテクノロジー系の流行の言葉に「ロングテール」というのがある。書籍という表現物を使ってこの言葉の意味を簡単に説明してみよう。一番よく売れている本から順に並べたグラフを作ったとする。X軸に過去1カ月に売れた本を最もよく売れた本から順番に並べる。Y軸は販売部数とする。
 インターネット普及以前ならX軸に並ぶ本の数はそう多くなかった。書店の店頭に並べられる本の数には限りがある。売れなくなった本は店頭から次々と姿を消し、一度店頭から姿を消した本が再び売れ始めることはほとんどなかった。
 ところがインターネット上の書店なら、在庫がなくならない限り、売れない本でも販売され続ける。ユーザー一人一人の購買履歴から、そのユーザーが好きな本を推薦する仕組みなどもあって、古い本でもわずかながら売れ続けることが多い。
 過去1カ月に売れた本を並べたグラフでみると、X軸が長く伸びる。まるで長い尻尾のように。ゆえにネットの普及後にみられるようになったこうした現象がロングテールと呼ばれるようになった。
 あまり人気がなく細々と売れている商品のことをロングテールと呼ぶこともある。一方で売れ筋のヒット商品をヘッドと呼び、ヘッドとロングテールの中間に位置する商品をミドル、もしくはマジックミドルと呼ぶことがある。
 さてロングテールの時代になり、一見ビジネスが変化したように思われがちだが、作家や出版社のビジネスには何の変化もない。これまで同様に、目指すはヒット商品である。ヒットしなかった商品でもネットのおかげでわずかに売れ続けるようにはなったが。売り上げとしては微々たるものである。ロングテール効果などほとんど無意味であり、ヒット作を出すことがこれまで同様に最も重要なのである。作品を作るという人間の力を使ったビジネスでは、相変わらず競争は個々の表現物間で行われるのだ。これまでと、ビジネスにそう変化はないわけだ。
 一方で変化があったのは、テクノロジーの力が勝負を決める集合の競争部分である。
 ネット上の書店アマゾン・ドットコムは、1つ1つの利益は小さいものの、非常に多くのロングテール商品を無数に集めることで全体として大きな収益を上げることに成功した。

▼オンデマンドで儲からないのは当たり前

 同様にオンデマンド放送は儲からないと嘆くテレビ局関係者や製作プロダクション関係者がいるが、儲からないというのもまた当たり前の話である。
 データ転送の形に「プッシュ」と「プル」があるといわれるが、通常の放送というものは「プッシュ」である。視聴者は、受け身でも番組を見ることができる。中には、それほど強くその番組を見たいと思っていない視聴者もいるのだろうが、その視聴者にも取りあえずその番組は届く。
 一方、オンデマンド放送は「プル」である。視聴者がその番組を見たいと明確に意思決定しない限り、その番組は視聴者に届くのである。
 視聴者がどれだけ真剣にその番組を見たかどうかは別にして、番組が届くという意味の視聴率では「プッシュ」型の放送のほうが数字は上だろう。
 オンデマンド放送にはロングテール効果があり、昔の映画などもある程度の資料率は稼げるのだろうが、やはりその効果はそれほど大きくなく、「プッシュ」と「プル」の差を埋めることは、到底期待できない。
 そこで「オンデマンド放送は儲からない」という嘆きになるわけである。
 しかし「番組」という人間が作った表現物、人間の力が勝負を決める個々の表現物の間の競争というのであれば、昔と競争のルールが何も変わっていないのは当たり前。オンデマンド放送にしたからといって、個々の製作プロダクションが急に儲かるようにはならない。
 ではだれが儲かるのか、といえば、新しい競争の分野での勝者である。インターネット普及により、人間の力が勝負を決める個々の表現物の間の競争から、テクノロジーの力が勝負を決める無数の表現物の集合の競争が、主な競争の分野となった。
 そして今、テクノロジーで勝負を決める集合の競争は始まったばかりだ。USENグループの動画配信サービスGyaoの人気が高まったかと思えば、米国の動画共有サービスYouTubeが急速に普及した。ネット調査会社ネットレイティングスは2007年3月22日に、「YouTube、“史上最速”で利用者1000万人に到達」という発表文を出している。これで動画サイトの分野でYouTubeの王座が確定したのかと思えば、日本の動画共有サービス「にこにこ動画」が彗星のごとく登場した。ネットレイティングスの2007年9月21日の発表文にとると「ニコニコ動画」、8月の総利用時間は前月比52%増加とある。前年比ではなく前月比で、である。2007年12月19日の「テレビ局サイトの総利用時間が
3カ月連続のマイナス」という発表文では、YouTube、にこにこ動画の総利用時間の推移もグラフに入っているが、このグラフをみても、にこにこ動画がもの凄い勢いで普及、利用されていることが分かる。(編注:ここに図を挿入)
 こうした動画サイトの運営で最も重要なのが、無料で動画を蓄積、配信できるようにどれだけ低コストでシステムを構築するのか、ということになる。テクノロジーの力が勝負を決める新しい形の団体戦の競争はまだまだ激化しそうだ。

▼コンテンツの未来、メディア企業の未来

 では人間の力をコアコンピタンスにするプレーヤーは、どう戦っていけばいいのだろうか。
 小説などの創作物の分野でのアマチュアの活動が盛んになり、相対的にプロの創作物の価格が低下する中で、創作物の未来はどうなるのだろうか。
 「コンテンツ・フューチャー」という本がある。文章や映像などのコンテンツのクリエーターたちの対談集となっているが、総表現者時代のプロの報酬の低下、ビジネスの形態の激変に対する苦悩がめんめんとつづられている。
 コンテンツに対する報酬が低下し続ければ、プロはどのようにして生計を立てればいいのだろう。プロが食えないようになれば、いい作品が生まれなくなり、作品の多様性が損なわれる。芸術性や多様性の低下は、人類にとって大きな損失である・・・。こういった思いを抱く人は少なくない。
 ブログが増えたところで、ゴミの情報が増えただけ。芸術性や多様性のプラスになっているわけではない。こういう主張も多い。
 本当なのだろうか。
 気をつけなければならないのは、先に述べたように現在はメディア消費の変化の過渡期であるということだ。過渡期はせいぜい20年から30年くらいのもの。いやもっと短いかもしれない。現時点でのメディア消費の現実が、本格的な情報化社会時代においても永遠に真実である可能性は低い。
 わたしは農民の兵隊が士族を打ち破ったときのように、大量生産の商品がギルドの商品より広く受け入れられたときのように、多くのプロのクリエイターはやはり今までの仕事のやり方で生計を立てるのは確かに困難になっていくのだと思う。ただイタリアの靴職人のように、ほんの一握りのプロに対する仕事は残るだろう。
 プロの今後の進むべき道の2つしかない。1つは、生計を立てられるほどのトップレベルを目指す道。2つ目は、特技と関連のある仕事に転換する道だ。
 残念ながら1つ目の道は、非常に細く険しい。ほとんどの人は、2つ目の道を進むことを余儀なくされるだろう。転職である。カメラマンがカメラ教室の講師になるなど、自分の特技を活かす形で新しい仕事の領域を目指すしかないだろう。
 これはメディア企業などコンテンツを作る企業にも言える。道は2つに1つ。コンテンツの質を徹底的に向上させるか。それともコンテンツ製作とは別の価値を創造するか、の2つに1つなのである。
 「ウェブ2.0」というキーワードを流行させたティム・オライリー氏率いるオライリー社は、テクノロジー関連の本を出版する出版社である。コンテンツを作る会社である。しかしコンテンツ製作の未来が明るくないことから、事業の領域をカンファレンスや見本市などのイベントに徐々にシフトさせているという。コンテンツ自体を製作する業務領域から、コンテンツを核に人々が集う機会を提供するというマッチングサービスの領域に軸足を移行し始めたわけである。

▼食えなくても表現したい時代

 プロがコンテンツを創作できなくなることで、芸術性や多様性が過渡期の一時期に損なわれる可能性は確かにある。大量生産の靴が出まわることで、出来栄えの悪い靴や同じデザインの靴が一時的に氾濫したのかもしれない。しかし今は大量生産の技術が向上し、ヘタな職人が作る靴よりもいい靴が低価格で手に入るようになっている。同様に、コンテンツ製作のツールが向上しネットを通じての共同作業がより活発になることで、多様性は間違いなく向上するだろうし、質も次第に向上していくのだろうと思う。
 それに芸術性や質といった物差し自体が、的外れになっていくことは先に述べた通り。コンテンツの消費の目的として芸術性や質を楽しむということよりも、コンテンツという仲介物を通じてユーザー同士がつながることが目的の場合が増えるのだ。つながる、共有することが目的の人にとって、コンテンツの質や芸術性はそれほど重要ではない。
 コンテンツに対する正当な報酬が与えられない時代になることを悲観する必要はない。報酬が与えられなくなるという悪い時代になるのではない。報酬がなくてもコンテンツを製作したく人が、自由に製作することで、表現する喜び、評価される喜び、人とつながる喜びを得られる時代になるのだ。

春以降に刊行予定の「経済リワイヤリング=メディア、広告の未来」(仮題)用の原稿素材です。未完成原稿ですので、引用にはご注意ください。誤字、脱字の指摘を初め、反論、コメントは大歓迎です。

ご指摘のあった引用間違いの箇所を修正しておきました。対応が遅れ申し訳ありませんでした。ご迷惑をおかけした皆様には心からお詫び申し上げます。

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Editor In Chief at TechWave.jp
1990年代初頭からソフトからハードまで50以上のスタートアップ立ち上げを国内外で経験。平行して雑誌ライターとして疾走。シリコンバレーでガレージベンチャーに参画後は、国内でネットエイジを筆頭にスタートアップに多数関与。ブログやSNSの国内啓蒙、ソニーの社内イノベーション事業など関与。通信キャリアのニュースポータルの立ち上げ期の編集デスクとして数億PV事業に育てた後、TechWaveにジョイン。世界最大のグローバルIT系メディアであるスペインの「Softonic」の元日本編集長
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