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以下の文は、「ネットは新聞を殺すのか」(共著、2003年NTT出版)の「おわりに」の原稿です。
おわりに
夜の9時を過ぎても若者の熱気でむんむんする渋谷のマクドナルドの2階。わたしの目の前には大畑滋生記者が座り、パソコンに向かって一心不乱に原稿を書いていた。おしゃべりに夢中になっている周りの華やかな雰囲気の中で、背広姿のわれわれ二人は明らかに場違いだった。
大畑記者は入社1年目。いわゆる「1年生記者」だ。やる気いっぱいはいいのだが単純なミスが目立ち、デスクに迷惑をかけることが何度かあった。そのためデスク連中からは「おおはた迷惑」という不名誉なあだ名までもらっていた。
マイクロソフトのビル・ゲイツ会長が渋谷で開いた記者会見に出席したあと、マクドナルドで原稿を書き携帯電話で原稿を送ることにしたのだった。「おおはた迷惑」記者一人に大物ビル・ゲイツの取材を任せることに不安を感じたデスクが、わたしに「お目付け役」を命じたのだ。
米シリコンバレーでの取材経験の長いわたしにとってビル・ゲイツは最も頻繁に取材した人物の一人。来日したからといって何も珍しいことはなかった。しかし大畑記者にとっては世界一の大富豪ビル・ゲイツと同じ空間に存在できるということが何よりうれしかったようだ。わたしのプレスパス取得の交渉から席の確保まで、大畑記者はてきぱきと動いた。質疑応答の際には手をまっすぐ上に伸ばしていたが、ついに指名されることはなかった。
「おい、大畑」。マクドナルド店内で夢中で原稿を書く大畑記者に声をかけてみた。返事はない。
もう一度「おい、大畑。仕事はおもしろいか」と声をかけた。
大畑記者は顔を上げた。そして顔いっぱいに微笑んだ。「はい、おもしろいです。非常に、非常に、おもしろいです。こんなにおもしろい仕事はほかにないです」。
わたしも同感だ。この仕事を始めたころは、こんなにおもしろいのに給料をもらっていいのだろか、とまで思った。現場の記者時代には、まわりの勤め人が週末を喜ぶ理由が理解できなかった。週末には「早く月曜日になればいいのに」「早く仕事に戻りたい」などと思った。
わたしは正規の試験を受けて時事通信社に入社したわけではない。高校卒業後に米国に留学し、サンフランシスコで地元の邦字新聞社に就職。その後エコノミストになりたくて大学に戻ったら、勉強すること自体がおもしろくなり、国際関係学からマルクス経済学、レズビアン史まで、でたらめに単位を取りまくっていた。その一方で、アルバイトとして、時事通信サンフランシスコ支局に勤めた。仕事内容は、進出企業向けのニュースレター「時事速報」の配達だった。
午前3時に起床し支局に行きニュースレターを印刷。4時半ごろから配達を始めた。新聞少年のようなものだった。
昼間は、当時の特派員の勧めで、翻訳を手伝うようになった。その後、取材の助手を務め、気が付けば自分で取材をし、記事を書いていた。
夜は夜で、毎日大学に通った。
睡眠時間は1日平均3時間程度。15分でも空き時間があればいすに腰掛けたままむさぼるように眠った。
週末になれば、悲しくもないのに涙が出た。極限状態を続ければ、心ではなく身体が泣くということを、初めて知った。
30歳過ぎまでこうした状態を続けていたと思う。その後は特派員が会社に内緒で「記者」の肩書きの名刺を作ってくれ、記者の仕事に専念するようになった。それでも、社内的には速報配達員のままだった。
給料は低く、社会的地位はゼロだった。特派員に対して愛想を振りまくのに、わたしとは言葉を交わそうとしない外務省の役人もいた。
親身になって転職を勧めてくれる人が何人かいた。「もっとプライドを持たなきゃだめだよ」「人間、夢をあきらめることも必要だよ」「少しは将来のことを考えないと」とアドバイスしてくれる人もいた。親身なアドバイスを頑なに拒否したわけではない。人並みのプライドを持っていないわけでもない。将来に不安をおぼえなかったわけでもなかった。ただ報道という仕事が好きで好きで仕方がなかっただけだった。
脳みそがとけるのではないかと思うほどの炎天下のメキシコの砂漠の中にある日系企業の工場の前で「張り番(取材対象が出てくるまで待ち続ける仕事)」をしたときも、ペルーの兵士に銃を向けられ身の危険を感じたときも、この仕事をやめたいとは思わなかった。
歴史的な出来事を実際に体験できること、すばらしい人物に会って話を聞けることは、この仕事ならではの醍醐味だ。特ダネを取ってきたときに「落ち着け、落ち着け」と自分に言い聞かせ、震える手で原稿を書くときの興奮は、まるで麻薬のようだ。
確かにわたしは地方支局での「サツ回り(警察担当)」の経験もないし「夜回り(夜に取材対象の自宅前で待機し、取材対象の帰宅を待つこと)」の経験もない。でも、報道の仕事を愛する気持ちはだれにも負けないと思う。
自分が半生をかけて愛してきた新聞記者という仕事が、インターネットの登場でどう変わろうとしているのか。それを知りたいがためにこの本の取材を続けた。
もしこの本の読者の中に、わたしが新聞の仕事を軽視していると受け止められた方がいれば、それはその方の誤解である。大事に思っているからこそ、客観的に先行きを読もうとしたつもりだ。「紙の新聞がなくなればいいのに」などと思ったことなど一度もない。
この本は、訳書を除けばわたしにとって最初に出す本である。編集委員という自由に取材できる立場になって、ようやく念願の本を出すことができた。この場を借りて、これまでお世話になった方々に感謝の意を述べたい。
わたしが時事通信の本社採用の社員に正式になったのは41歳のときである。保守的な新聞業界の中では異例中の異例の出来事だといえる。わたしを受け入れてくれた時事通信社の寛大さに感謝したい。
実際には、配達員、編集助手、支局スタッフ、米国法人社員、本社通信員という段階と時間を経て本社社員になった。自分から頼んだことは一度もなかったが、周りがわたしの待遇を少しでも改善しようと尽力してくれた結果だった。
保守的な業界なので、社内の反対には相当なものがあったようだ。わたしの名前を職員名簿に載せることにさえ反対の声が上がったと聞く。それでも多くの人がわたしを支援してくれた。自分の社内的立場が悪くなろうとも、気にせずにわたしを推してくれた人もいた。
お世話になった人の数が多すぎて全員の名前をここに挙げることは到底できない。あえて一人挙げるとすれば、時事通信社会部の橋詰悦荘記者だ。橋詰記者の正義感の強さ、特ダネをかぎ分ける動物的な勘、あやしいところを徹底的にたたく手法には、学ぶところが多かった。
この本を書くに当たり原田泉氏を始めとする国際社会経済研究所の皆さんには大変お世話になった。共著者の青木日照氏とは楽しく二人三脚で仕事ができた。広報経験の長い青木氏は取材される側の視点、わたしは取材する側の視点を提供し、二人の間でバランスのある議論ができたと思う。
またいつも心の支えになってくれている妻と息子にも礼を言いたい。
最後に、日本を飛び出したまま20年も戻らなかった落ちこぼれ息子を辛抱強く応援し続けてくれた大阪の両親に対し感謝の言葉を述べたいが、今の気持ちを表現できる言葉を見つけることができない。