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「インフォコモンズ」(佐々木俊尚著)の読み方

 わたしの会社に対する帰属意識が薄れてきたのは、いつからだろう。10年ほど前は自分のアイデンティティの中核をなしていたのが、自分の職業であり、自分の会社だった。同僚と酒をくみ交わしジャーナリズムに関する議論を繰り返すことが、何よりも楽しかった。
 今は同じ会社の人や業界関係者と飲みに行くことはほとんどない。昼食もほとんど毎日一人で食べる。仕事で修羅場を一緒にくぐり抜けた先輩や仲間は、一人また一人といなくなり、会社に友と呼べる人がほとんどいなくなった。
 どうしてこうなったのだろう。よく分からない。自称「大物ジャーナリスト」に幻滅したからなのかもしれない。ジャーナリズムを語ることに興味を失ったからからなのかもしれない。

 自分のアイデンティティの核が一つなくなったのである。家族というアイデンティティの核が残ったのでなんとか心の平安を保てたが、それにしても大きな喪失感、不安感、孤独感をここ何年かで感じてきた。
 佐々木俊尚氏の近著「インフォコモンズ」では、リストラなどで会社への帰属意識を失う例が挙げられていたが、わたしは幻滅という形で職業への帰属意識をなくしたのかもしれない。
 ぽっかりと開いたアイデンティティの穴をインフォコモンズという情報を核にした人間のつながりが埋めるようになると、佐々木氏は予言する。人間の帰属意識の対象が血縁、地縁、会社から、情報を核にしたグループに移行するというわけだ。

 社会から接続を絶たれ、身震いするほどの冷たい孤独がそこには存在していた。この暗く冷たい世界の中で、どうさまよっていけば、熱いたき火と寝心地の良い寝袋、そして理解し合える仲間のいるキャンプ地にたどりつくことができるのか。
 インフォコモンズ(情報共有権)の生み出す新たな世界は、すべての他人、すべての情報、すべてのオブジェクト、そしてすべての世界が、情報を軸とした相関関係によってひとりの個人の視野の中でなめらかにつながり、ひとつの視野の中に入ってくる。
 それは新たな仲間、新たな友人、新たな共同体を生み出す。その共同体はきわめてクリアに、スタインバーグの絵のように遠くまで可視化されている。
 その時世界は、晴れ上がるのだ。

 この予言は少なくともわたしに関しては既に現実のものになっている。わたしのアイデンティティの核は既にインフォコモンズに移行しているのだ。4つのSNS的サービスのおかげで。
 わたしは今4つのインフォコモンズを持っている。1つは、このブログを通じた読者とのつながり。2つ目は、twitterを通じたつながり。3つ目は、Mixiのマイミクとのつながり。4つ目は、timelogを通じたつながり、である。それぞれのインフォコモンズの規模は約1万人、百数十人、数十人、30人ぐらい。公に向けた発言かプライベートな発言か、そしてそれが長いまとまった文章か、短いつぶやきか、という4つのマトリックスに分けて、インフォコモンズを使い分けているのである。
 それぞれのインフォコモンズは、確かにわたしに心の平安を与えてくれるようになっている。
 今年に入って「動画人」「広告系ブロガー新年会」などというイベントに参加して思ったのは、こうしたイベントはインフォコモンズが核になっているので、他に類を見ないような盛り上がりを見せるのだろう。どんな飲み会よりも熱気があり、楽しかった。
 佐々木氏は「ひとりのユーザーがいくつものSNSに加入するような面倒さを引き受けられるのか?という問題もある」と指摘しているが、少なくともわたしに関してはそれほど面倒とは思えなかった。
 職業という1つの共同体を失ったつらさに比べれば、SNSに加入する面倒さなど、何の問題でもなかった。恐らく加入が面倒であったり、参加しても積極的に活動しない人たちは、今自分が持っている共同体に十分満足しているからだけではないだろうか。
 これからの社会を生きるものすべてがインフォコモンズに属するわけでもないと思う。これまで通り、血縁、地縁、企業社会、学生時代の仲間などの共同体でうまく生きていければ、それにこしたことはない。大都市中心の時代になり地縁の共同体で生きて行けなくなった一部、もしくは多くの人が企業社会の共同体で心の平安を得たように、終身雇用制が崩壊し企業社会の共同体を持てなくなった一部、もしくは多くの人がインフォコモンズを求めるようになるのだろう。
 それぞれがそれぞれのペースで新しい共同体を探し求めていけばいいのだろうし、捜し求める人にとっては加入する面倒さはまったく問題にならないハードルだろうと思う。
 佐々木氏の本から得ることができるは、「これからの社会は情報を核にした共同体を心の拠り所にする人が増える」という指摘である。
 わたしは佐々木氏のコモンズの定義が間違っているのかどうかは知らない。知らないし、興味もない。新しい時代の現象を完璧な定義の言葉で表現することなど、ほとんど不可能である。多少の誤解を生みながらも、過去にある言葉を借用するしか議論は前に進まないものだ。枝葉末節にとらわれずに、佐々木氏の最も大事にするメッセージを受け取ることができる読者は幸福である。
 さて佐々木氏が次の時代を俯瞰したあとに、次にしなければならないのは、そうした社会にはどのような仕組みが必要になってくるのか、という議論である。そのような社会において、どのようなビジネススキームが成立するのか、ということを考える人も出てくることだろう。

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