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プライバシーの概念の変化と近代以降の社会の形

 プライバシー保護の考え方に疑問を持ち始めたのは、数年前のある友人の一言がきっかけだった。

 酒の席で「プライバシー侵害はけしからん」というよう論調で語り始めた僕に対して、その若き友人は「どうして?」と無邪気に聞いてきた。「何かばれるとマズイことでもあるの?」「いや別にないけど・・・」「じゃあ
どうしてそんなにこだわるの?」。「・・・・」。
 答えが出なかった。そして今でも答えは出ない。

 その後、プライバシーの概念は近代になってから発達した、というようなことをどこかで読んだ。近代以前の村落では、基本的に情報は村民全体で共有されていた。プライバシーがない代わりに、人々の間に深いつながりがあった。
 近代になって個人主義が発達し、プライバシー保護の考えが広がった。「隣は何をする人ぞ」・・・。東京砂漠という言葉もできた。
 情報技術の発達は、いろんな側面で社会を近代以前の状況に戻そうとしているのではないか、という説がある。もちろん単純に後戻りするのではなく、近代を通過する中で失った価値あるものを、テクノロジーを使って別の形で取り戻そうとしているのだ、という考え方だ。

 この辺りのことをしばらく、うつらうつらと考えていた。「プライバー侵害はけしからん」って何がそんなにケシカランのですかというエントリーを11月にアップしている。
 そんな中でTechCrunchがすべてを公開しながら生きる生き方, それがふつうだと思おう
いう記事をアップした。同じような時代の変化に気づき始めた人がいるのだと思った。興味深かったのは、この記事に対するはてブだ。300件以上のはてブがつけられているのだが、ざっと見る限り、こうした考え方を肯定的、もしくは事実として受け止めている人は1、2割。反対に「日本は違う」という考え方と
か、「受け入れられない」という否定的な見解がまあ多い。
 もちろんほかの情報化の流れ同様に、この領域でも日本特殊論は成立しないと僕は考えている。文化の違いは確かに存在するのだが、その違い以上に大きな変化が押し寄せているのではないか、と考えている。
 この記事のおかげで、同様のことを考えている人のブログ(英語)を知ることもできた。これからこの問題のことをしばらく追いかけたいと思う。

 このTechCrunchの記事を読んで、KNN神田さんが「ぴんときた!」とTwitterでつぶやいていたが、神田さんの柔軟思考はさすがだなと思う。本当に頭のいい人というのは、神田さんのような人のことを言うのだと思う。

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