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16歳で起業して4年間やってきて思うこと【鶴田浩之】


[読了時間:2分]

蛇足:僕はこう思ったッス

 maskinです、こんにちは。16歳で起業、現在は大学生の“もっち”こと鶴田浩之さんに登場して頂きます。今回紹介する彼のブロク記事はつい1週間ほど前、はてブで2000近いブックマーク数を獲得するなど大きな反響を呼んだものです。僕は、新生ネットエイジのオフィスで偶然彼と会うことになり、西川潔さんの勧めでこの記事を読んで激しく共感。次の打ち合わせで大遅刻するほど彼の話に聞き入ってしまいました。

 「満足したらそこでおしまい。自分には無理かもしれないと、頭をよぎったらそこでおしまい。」「実装力が全て」などなど起業というか仕事人に必要なエッセンスが多く込められていると思います。


鶴田浩之氏

16歳で起業して4年間やってきて思うこと

きっと誰にでもある、でもなかなか思い出せない種類の、小さなエピソード

 10年くらい前、僕が小学生5年生か6年生のときですが、当時まわりで流行っていた遊戯王カードを十数枚ほどランダムに寄せ集めて封をしたオリジナルパックを、近所や学校の友だちに200円か300円で売っていました。レアカードも入れてほぼ均等に妥当なレートになるよう商品設計を心がけていましたが、たまに大当たり(紙切れ1枚で例えば3000円のレアリティがあるものも結構多く存在します)が出るので、商品としてけっこう魅力のあるものでした。今思えば、すでにあるものを再編成して付加価値をつけて売るという、僕の人生初めてのビジネスでした。小学校の卒業文集では、学年で一番足が速くてスポーツ万能な親友が「プロ野球選手になって1億円で契約する」と書いていた夢のとなりに、僕は「年商5億の会社をつくる」と書いていました。正直、小学生のときに何を考えてたなんて全然覚えてなくて、小学生の僕が本気で起業したいとか、そんなことを真面目に考えていたのか今でもわかりません。その時は、本気だったのかな。それとも、ただの強がりだったのかな。

 中学生に入ってすぐの頃、宝くじのナンバーズの当選番号を予想するアルゴリズムを考えていた時期がありました。ナンバーズ3だと、3桁の数字を予想して当たれば200円の元手が9万円です。当選確率は1000分の1。普通に考えれば、全通り買って元手20万円に対して9万円の金額なので、胴元がとれることはありません。そこで、例えば連続して同じ数字が当選する可能性は極めて低いため除外するとか色んな理論を勝手に編み出して、直近2000件の当選結果を分析して次の数字を導き出すという予想アルゴリズムを試してみました。エクセルの関数式をフル活用しました。フィルタリングと呼ばれる手法の組み合わせで、精度を高めていくのです。これが完成すれば、理論上は、ある決まった方程式で宝くじを買い続ければどんどんお金が増えるのです! 今でこそ笑い話になりますが、これらの予想アルゴリズムによって、当選確率を1000分の1から、少なくとも300分の1程度まで絞り込む事ができるというのが、当時の僕の持論でした。結果、トータルではとても損をしました。ビジネスやお金の考え方において、数学はとても重要だと知ります

 これといったきっかけは多分無いのですが、僕は子供の頃から、お金を稼いだり増やすこと(少し後になって、0を1にすることと、1を10にすることは全く違うプロセスだということを理解しました)に、子供心にとても興味を持っていたように思えます。それは、いつも「お金が無いのよねぇ」と口癖のように言っていた母の言葉が、胸の奥深くにあったからかもしれません。限りある資源のなかで1円でも安いものを求める倹約家だった母に対して、頭をひねって節約に悩む時間があれば、その時間をお金を稼ぐことに充てたらいいじゃんか、といつも立ち向かっていました。「そんな元気はもうないわよ。あんたが将来頑張って働いたら親孝行しなさいよ」そう言い聞かされていました。母の姿勢は、今ではとても尊敬しています。いつかお金を稼ぐようになったら、苦労かけた両親に楽をさせてあげたい、漠然とそういう思いがありました。(指摘される前に書くと、もちろん当たり前ですが、純粋に物欲や自分が誰かに認められたいといった承認欲求も根底にはあったと思います。しかしそれはさほど重要では無かったようにも感じます。)

使う人から、創る人へ

 13歳の時に初めてインターネットでモノを売り(安く仕入れて高く売るという基本的なことをしていました)試行錯誤し形を変えながら発展させ、そのうちにWeb制作を始めました。初めて半年間は、それがお金になるなんてまったく考えてもいませんでした。はじめに、ヘッダに強制的にでかでかと広告が出てくる無料のレンタルサーバーを借りて、真っ白い背景に中央揃えをした24ポイントのテキストと、なぜかひまわりの写真があるページが完成しました。何はともあれ、世界でただひとつのWebサイトです。2004年10月15日のことでした。マーク・ザッカーバーグがフェイスブックを作ったちょうど同じ時期、僕も晴れてインターネットデビューです。大多数の「使う人」から、少数の「提供する人」へのシフトです。それは小さな一歩でしたが、大きな変化でした。ザッカーバーグが19歳、僕は当時13歳でした。

 それからゲームの情報サイトを作り、4ヶ月後には1日で5000pvを超え、Yahooのカテゴリに登録されて、2年後のピーク時は月間600万pvのサイトになりました。そこに到るまで、毎日何時間もサイトを成長させることに思考と時間を費やしていました。もちろんHTMLなどの基本的な技術はそこでつくりながら学び、デザインの考え方とプログラミングについて、初歩的なことを理解しました。僕が天才的なプログラミング能力があるとか、親が経営者でそういう教育を受けたとかそういうことは全く無くて(残念ながら)、興味ある分野の本をたくさん読んで基礎を学び、いかに少ない技術と知識で応用可能かを、あらゆる可能性を試しながら検証し続けたことが僕のやってきたことです。やりながら勉強。僕の成長の人生観を一番よく表してくれる四字熟語は「試行錯誤」です。この言葉は本当に大好きで、プログラマーの方はわかると思いますが、何かを形にするためには、1行ずつのチェックや修正など地味な作業が必要不可欠で、気が滅入り時には全てを投げ出したくなるほどです。でもその過程を経て作品が完成したとき、小さな積み重ねと改善していく行為は、僕にとって快感だと知りました。ドMなのかもしれません。最初は、アイデア(気づき、着眼点)とそれを実現してやり抜く情熱と忍耐力が大事でした。でもそれは好きだったからこそ、できたものです。もちろんある局面において技術的な強みが極めて重要な差別化要因になることも多々あります。「どうすればもっとよくなるだろうか?」を四六時中考えていました。毎日少しずつ伸びる訪問者数の数字にわくわくしていた日々でした。すべてのきっかけは、自分自身へのニーズからです。今でも心がけている設計思想の一つですが、自分が実際に使いたいと思う機能やサービスに絞って作ってきました。どこよりも早く、どこよりも多く、どこよりも分かりやすく、というのが中学生の僕が掲げる差別化戦略でした。Webサイトはちょっとしたテクニックを使えば短期的にアクセスを集めることなど容易いことですが、素直に質の高いものを作り続けることが、長期的にみて長く生き残ると信じていました(目先に利益にとらわれず、しっかりと長い道を見定めなさい、といった類の教えをそのまま実行していたと思います)戦略的に、というより自然な流れで、水平展開や垂直展開のような事もやっていました。(そういう言葉はずっと後になって知るのですが)関連するサイトをいくつも立ち上げ、相乗効果を持たせながら同時に10サイトくらいを運営していました。全サイトへのアクセス数は、2010年までに累計で2億5000万pvを超えました。

 これらの経験から、人生やビジネスの中で大事なことの中の、あらゆる基本的なことを学びました。ユーザーの視点で考えること、価値を提供することの意味、コンテンツとマーケティングでそれぞれ最大化を目指すこと、マネタイズの仕組み、インターネットの技術的なこと、デザインの重要性、自分のモチベーションの管理、感動を与える演出などなど。中でも、「自分が一番興味があることしか、結局は情熱を注ぐことはできない」といった気づきは今でも大事にしています。たとえ利益が出るからといって興味のない分野に進んでも、結局はダメなんです。僕にはそれができる器用さは、持ちあわせていなかった。成長への大きな変化の分岐点は「使う側」から「創る側」に立ったことです。大袈裟かもしれませんが、何か一つでも創って誰かに提供すると、社会の見え方がまったく変わりました。電車の中吊り広告からレストランのメニューまで、あらゆる物事への視点が変わり、それらは面白く、ヒントになりました。いわゆる「経営者の視点」というものです。経営者でなくても、個人で、たとえ中学生でもサービスをつくる人であれば同じ視点を持つことができます。これは、思ってもみなかった面白いことでした。僕が今もし中学生に話をする機会があれば、早い段階から「創る人」になろうよ、と声をかけます。それはデジタルなものでも、アナログなものでも何でもいいと思います。何かを創る経験がなくて社会人になってしまうと、もしかすると「使われる」だけの人間になってしまうのかもしれません。人が多く集まるサービスを作り、広告枠を売るというのは今でこそインターネットで誰もが最初に考えることですが、当時田舎にいた14歳の中学生にとっては、とても新鮮な、小さな社会進出でした。

起業、そして衰退

 それから高校に進学して16歳のときに親の扶養から外れ、所得税を払い始めて個人事業主になりました。起業。思いのほか早い段階でそれはやってきました。書類上の手続きでしか無いし、誰かを雇って法人としてやっていくわけでもないので、次の日から何かが変わるといったこともなく、リアルには感じませんでした。高校はバイトが禁止で全体的に校則も厳しかったですが、起業というのは前例がなく暗黙の了解ということになりました。高校時代は会計も勉強しながらで、将来何かに役立つかもと簿記検定の1級は取っておきました。でもこの学んだ知識は、実際の現場でどういうふうに使われているのかまったくわかりませんでした。今でこそファイナンスの考え方をきちんと理解しておくと、出来ることが本当に広がるんだなと思っていますが、当時はただ数字の動きを追っていただけでした。17歳、18歳とそれからもサイトやサービスも作ってきましたが、徐々に大学受験などで時間的にも精神的にも余裕が無くなり、ピークは17歳の初めの頃だったと思いますが、それ以降は緩やかに下降し始めました。サイトも徐々にたたみ始めました。

 ちなみに僕の高校は進学校ではなくプログラミングや会計を学ぶ専門高校で、地方のそういう高校にありがちですが高卒のまま地方中小企業への就職が60%、あとはほとんど専門学校か短大です。国立大・早慶上智はおろかMARCHへ進学するような人は、数年に1人スポーツ推薦で出るかどうかというものでした。そういう環境から1年半、独学で慶應大学を目指して受験勉強し始めました。

 とても大事にしたい教訓なのですが、高校生の身分で大卒初任給くらいの収益があった時、どうしてもそれ以上貪欲に求めることは、非常に難しいことでした。そのため、やる必要性がなくなり中学時代のようながむしゃらさが徐々に無くなったのです。有効な使い方を知らないと、お金を稼いでもほとんど意味が無かったのです。これは若さゆえの、失敗でした。「なんとなくこのまま続けていたら、ずっとうまくいくだろう」そう思い始めた瞬間が、下降への分岐点でした。自分の努力によって成功したのだから、天狗になるのも仕方ないのかもしれません。でもその時には、全てを失う覚悟が必要でした。僕の部屋の壁には、この経験から「満足したらそこでおしまい。自分には無理かもしれないと、頭をよぎったらそこでおしまい。」という言葉が貼ってあります。

 「今、まったくゼロからスタートしなさい」と言われたとして、そのとき出来ることが本当の自分の価値だと思います。

大学生になってから

 僕の大学は慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)というところで、一部の方はご存知だと思いますが楽天やGREEやサイバーエージェントなどの多くのベンチャーの創業メンバーが出ているキャンパスです。クックパッドの佐野さんもそうです。僕は高校時代、W3CつながりでSFCを知ったのですが(※ WEBサイトを作るためのHTMLやCSSなどの言語仕様を策定している世界規模の標準機関W3Cは、マサチューセッツ工科大とフランスの研究所と、そして日本のSFCに拠点があります)学部長がインターネットの父、村井純ということもあり自然と学生にもそういうプログラマーや起業家志向の人たちが多く集まっています。このキャンパスでは基本的には、自分で作れないやつは相手にされません。つまり実装力が全てです。アイデアをいかに雄弁に話しても、ふーんで終わってしまいます。プロトタイプを作って見せる段階で、初めて話が出来るのです。

 上京してからは、本当にいろんな人に会いました。こういう言い方をすると学生にありがちで好きではないですが、たぶん1年半の間に1000枚近い名刺をもらったと思います。そこには経営者や記者の方やメディアの方も多数いました。クリエイティブやメディアをテーマとした交流会も、自分で定期的に主催するようになりました。そのうちに学生ゲストとしてそういった他の会に呼ばれるようなこともありました。全てのアポには、とにかく最優先でスケジュールを調整しました。それくらい、上京したすぐは駆け回っていました。ただのネットの人では終わりたくなかったからです。そんな中で、朝まで語り合うような仲間や、僕の人生で師と仰げるような一回りも二回りも上の大人を(まだ、片手で数えるほどですが)見つけることができました。18年間ずっと耐えてきて、念願だった東京での暮らしは、とても刺激的でした。類は友を呼ぶ、とよくいいますが、自然と回りには起業家やクリエイターやアーティストなど既に実績を残しさらに高みを目指す同世代が集まるようになりました。彼らは上昇志向で、常に新しいことを求めています。僕も負けていられないな、とよく思ったものです。

 何年か経って、この時期に出会った友達が将来それぞれのフィールドで活躍していて、たまに再会して昔の自分たちを語り合うことが出来るとしたら、それは僕にとってとてつもない喜びです。5年前に初めてインターネットで発信し始めたとき、そういう未来があるとは予想もできませんでした。それはつまり、今日これから5年後にとっても、予想しないような素敵なことが待っている可能性があるということを意味しています。それは自分の向かい方の問題で、どうにでもなるものです。

 大学生になってから、学生団体という存在も知って東京には活動的な学生が本当に多いものだと感心しましたが、起業家志望だという大学生の多くは、ひらめいたアイデアをそのままビジネスモデルだと勘違いしていたり、とりあえず学生であることを売りにしたマーケティング事業をすればいいやといったアイデアしか持ちあわせていないことが多く、あまり僕を刺激させるものはありませんでした。しかし、大学で出会った教授や、クリエイターや技術寄りの人たちとの話はとてもワクワクさせてくれてました。もう一度人生の方向性を少しだけ変えられるとしたら、僕は13歳から毎日プログラミングを勉強したいと思っています。ここ2、3年はiPhoneの登場、フェイスブックやTwitterとそのサードパーティのアプリやサービスの登場で、周りでは起業していたりプログラミングで一発当てようとしている人が多くなってきましたが、僕自身も本当の意味でサービスやビジネスの仕組みをつくることの楽しさをだんだん肌で分かりはじめました。16歳と19歳の違いはとても大きかったです。

 あと1週間で、19歳も終わろうとしています。思い返せば僕の10代は、ビジネスやクリエイティブとは切っても切り離せないような生き方をしてきました。そしてこれからも、そうなるのかなと予感しています。そういう生き方は、僕の人生の宿命的なことかもしれません。来月には法人化して、コアとなる事業やサービスを自分たちの手で作り、将来的には国内での上場や海外進出も含めて、より大きなフィールドを目指します(それはまた後日。)

 僕にとっての仕事の生きがいは、何も無いところから何かを創りだして、それらがうまく循環し持続するような仕組みを構築して、価値あるサービスをユーザーに提供して満足してもらうということです。経営者なら誰もが口を揃えていう当たり前のことですが、僕も例外なくそういうシンプルなことがまず出来れば十分です。それを20代の早い段階で実現できたら、嬉しいです。

自分自身に投資するということ。

 僕は、お金は手元にはあまり多くは残していません。中学時代から、多くは自分自身への再投資に費やしてきました。読書や、経験です。家に450冊くらい本があるので、1500円で計算すると70万円くらいになるんじゃないかと思います。買う本は読む本の5冊に1冊くらいなので、本当にいろんな本を読んできたと思います。ずっと長崎に住んでいた僕は、高校時代に週末3日間によく東京にきて色んな人に会っていました。金曜日の夜に飛行機に乗って出かけ、月曜日の一番早い便で帰ってきて午前中の授業はサボるというものです。高校2年生の時には、2週間かけてインドのラダック地方(パキスタンと中国の国境沿いのチベット文化の残る地域で、標高3500メートル、ヒマラヤに囲まれた辺境の土地です)を一人旅しました。インドを選んだのは、スティーブ・ジョブズも19歳か20歳のときにインドの山奥で修行したという話を聞いたからです。知らない土地を旅したり自転車で遠くまで行くことは、今でも大好きなことの一つです。形こそ無いけれども、お金以外にもたくさんの「価値」がこの世には存在することに、気づくことができました。それは、自分が意識を向けて気づくことさえすれば、最小限の努力と向き合い方の問題で、今の自分の力でいくらでも捕まえることができる類のものです。

 15歳、中学3年生の時の話です。当時「ネットトレード」が流行り始めていて、小さな子供の小さなビジネスで得た小さな資金をもとに、僕も株式投資を始めてみました。ちょうどホリエモンや村上ファンドの話題がテレビや紙面を騒がせていました。当時マネックス証券で中学生でも口座を開くことが出来たので、どんなものかと始めてみました。当時で人生最大の買い物、40万円くらいの株をワンクリックで買えてしまったときは、心臓が凄くドキドキしていました(その銘柄は1週間後に45万円くらいで売りましたが、5年後の今では15万円前後で推移しているようです)あの時の感覚を今でも忘れません。しかしながら、政治も経済もファイナンスについてもまったく何も知らなかった(知ったかぶっていた)愚かな15歳のトレーダーに過ぎなかったので、トータルでは損しました。ナンバーズどころの額ではありませんが、タメになった勉強代でした。

 しかしながら、その時期に吸収した投資の基本的な考え方は、ある意味でその後の僕を大きく変えてくれました。中途半端に株式投資なんかをやってみて、奇跡の大成功なんて得られるはずもなく知った教訓。人生論的な話ですが、「最大の投資は、自己への投資である」という言葉は、あれ以来僕の中に染み付いています。足し算ではなく、掛け算として自分を日々高めていくこと。本を読んだり、人に会ったり、そういったことに惜しみなくお金と時間を使うこと。それらは何年かあとに、何十倍にもなって返ってくるだろうと。14、15歳の時に手にとった、あらゆる本や人々が僕にそう語ってくれました。そのヒントをくれた、先人たちの言葉に心から感謝したいと思います。

 あれから「自分自身に投資し続ける」ということが僕の一つの習慣になりました。これは意識しているのではなく、自分に染みこんでしまった習慣です。一つの形としての結果はまだ出ていないかもしれないけど、いつかそれが形になって「間違っていなかった」ということを実証できる日がくることを願っています。そういうことを意識することが年齢的に早ければいいというのでは決してなくて、どんなフェーズであれ気づいた瞬間から習慣にするかしないかで、何年か後の環境は大きく変わっているはずです。

 スティーブ・ジョブズの「Connecting the dots」の話は有名です。初めてこのスピーチを知ったのは中学3年生の時でした。一見無駄に思えることも、それらは全部繋がっていて今の自分を作っている要素であるということ。「未来に先回りして点と点をつなげることはできない。できるのは過去を振り返って繋げることだけで、その点と点がいつか何らかのかたちでつながると信じなければならない。」彼だけでなく、多くの人がそのことを言っています。僕も、自分の経験から強く感じます。子供時代は、国語や社会など、歴史を学ぶことがとても無意味なことだと思っていました。今思えば、それら一つ一つの歴史から学ぶことは本当に多いです。学校で学んだことの多くは、自分を今の想像力や行動力を底上げしてくれる土台になるものでした。図工や美術なんて大嫌いでいつも評価2くらいでしたが、いま僕はデザインの仕事をして飯を食っています。改めて自分に向けて言いたいことです。人生に無駄なことなど何一つ無くて、それらは見えないところで深く関連しあって将来に向かう一つの点と点として集まっている。そういった全体像をイメージして把握することが、長期的なプランにはとても大事なんだと思います。

 こう振り返って書いてみると、他の人からみたら僕はとても計画的に自分の人生を送ってきたようですが、実際はかなり適当で、行き当たりばったりでやってるほうだと思います。きっと大事なのは、きちんと管理して計画を立て遂行することよりも、全てを繋ぎ止めてくれる自分の哲学や考え方を持つべきなんだと考えています。未来の環境や状況、そしてなにより自分自身は、変わり続けるものです。

タイミングの重要性

 僕はなにか新しい大きなことを始めるとき、タイミングをとても大事にしています。そのタイミングは何かというと「環境が変わって、2年後」。大学に入学したり、新卒入社したり環境が変わって2年間は、物事を俯瞰して全体像を把握するために想像力を働かせます。できるだけ多くの人に会っておきます。色んなところに行ってみます。組織の中にいるなら、可能なかぎり組織のマネジメントを見ておきます。僕は高校に入って2年後に生徒会長になりましたが、それまでの2年間は、ことあるごとに「ああ、自分だったらこうするのに」「こうすればもっと良くなるのに」というフラストレーションがいっぱい溜まっていました。おかげでやりたいこと、自分がやるべきことが客観的によくわかって、始めるときの原動力になりました。

 個人差はあれど僕にとって「2年」というのは絶妙な時間感覚で、それ以上も以下もないと思っています。その分野の知識や技術をみにつけたり自分のアイデアや考え方を成熟させるのには十分ですが、1年では短すぎる気もします。また2年以上過ぎてしまうと、多分そのまま「動けなくなる」リスクのほうが大きくなると考えています。居心地がよくなってしまって思考停止してしまうのは嫌です。もちろん、生き方が上手な人はそんなことはないのかもしれないけれども、僕みたいに不器用な人間は、「いつかやろう」では絶対にタイミングを上手につかめないのです。だから2年を一つの区切りとして、新しく動き始めることをいつも視野に入れています。

というわけで2年後が来てしまった。

 最近、友人からよく「生き急いでるよね」と言われます。そうかもしれません。たぶん僕は、人生は30歳までだと本能的に感じています。10年後の計画なんて考えたこともないし、無理です。人間、勝手に自分は80歳まで生きてると思ってるから、なかなか自分を突き動かしたり、一生に一度の情熱をかけたことにチャレンジしようとしません。あと10年しか自分の情熱や、親と周りから授かった力を試す機会が無いとしたら、どうだろうか。多分きっと明日すぐやるべきことは決まってくるし、今夜だってすぐに動きたくてうずうずして、ぜんぜん眠れなくなってくるかもしれません。その時の、自分の中から湧きでてくる感覚こそが「人生のリアル」です。決して忘れたくないこと。僕は、子供の頃から死ぬことがとてもリアルでした。病気で入院したり、精神的に弱い自分がありました。だからいつ終わってもおかしくない、だったら今やるしかない、みたいな。その10年のなかでも、1日1日が完成された人生である必要があります。毎日1つの成果を出すこと、それが最近の習慣です。僕はそんなふうに、毎日を過ごしてます。悔いのないように。

 もしあるとするならば、30歳からのことは、その時になってまた考えればいいかなと、思っています。

2/12 追記

 多くの方に読んでいただいて、とても嬉しいです。追記として最後に、僕の通っているSFCのOBでもあるゴスペラーズの北山陽一さんから授かった、僕の心に刻んでいる言葉を紹介しておきます。同世代に向けて。

北山陽一さん:
 今の時代ってさ、やっぱりみんな思考停止しちゃってると思うんだ。単純に生きていくのには本当に苦労しない。だって毎日同じ時間に起きて、適当にご飯を食べて、学校に行って授業を受けて、サークルで遊んだりバイトしたりしてお金稼いで、家に帰って寝る。その繰り返しじゃないですか。お金だって、ちゃんと働こうと思えば生活していけるだけの分は稼げるし、遊ぶこともたくさんあって、それなりに豊かだなぁってみんな思ってる。
 だけど、それってみんな気づいていないけど、ただ時間を食いつぶしてるだけに過ぎないんだよね。時間は食いつぶされていくだけで、そこには未来はない。それに気づいた時、僕らは何かを生み出し続ける人たちでありたいと思ったんだ。SFCっていうところは、要するにそういうところなんだろうと思う。 SFC生には、どんな時代でも、何かを作り続ける、創造する人たちであってほしい。そう願ってやまないです。(2010.4.4 SFC20周年記念イベントにて)

■ 関連URL
・» 16歳で起業して4年間やってきて思うこと │ もっちブログ
http://www.mocchiblog.com/?p=6495

ゲストプロフィール: 鶴田浩之(学生)

1991年2月16日 長崎県諫早市生まれ。慶應義塾大学SFC環境情報学部2年。Webデザイナー・プランナー・ディレクター/フォトグラファーとして仕事をしながら、大学では経営戦略論やプログラミングなどを学ぶ。現在、起業に向け準備中。

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