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子供は大人の鏡。これは子供たちが悪いのではなく、子供たちが映し出している大人の社会のほうに問題があるのだと思います。大人たちが自分たちの人生にワクワクしなくなっているから、閉塞感の中から抜け出せないからだと思います。どうすればみんながワクワク生きることの社会になれるのか。それは非常に難しい問題なのですが、1つの方法として予行演習をする、というやり方があるかと思います。小さな成功体験を積み重ねていくことで「生きる力」を身につけるという方法です。音楽イベントを通じて「生きる力」を身につけることのできる環境を提供する。そんな活動をしている方がいます。NPO法人ブラストビートの松浦貴昌さんです。松浦さんに特別にお願いして寄稿してもらいました。(湯川鶴章)
高校生の5人に3人が「自分が参加しても社会は変わらない」
松浦貴昌
私は2つ会社の代表をしています。株式会社フィールビートとNPO法人ブラストビートです。そして学生でもあります。元々は高卒なのですが、明星大学教育学部に通い始めました。1小中高の教員免許を取る教職課程で現在1年生。専門は社会科です。株式会社とNPOの代表をやりながら、しかも学生。大変ですが、元気に生きています。
私の趣味は学びの探究です。ビジネス、経済、教育などの分野はもちろんのこと、仏教や神道などにも学んでいます。仏教ですと、最近では、真言密教、陰陽五行論なども学問として、生き方、あり方として学んでいます。
ところで私は、子ども頃から人生をかけて考え続けている“問い”があります。それは、「自分らしく生きるとは?」ということです。そしてその問いの延長として、今の人生の目標は、「一人ひとりが自分らしく生きられる社会を作る」ということです。この軸に沿っていろいろな活動をしています。それ以外のことには興味がないと言っても過言ではありません。
日本の人口動態については多くの人が既に指摘しているとおりですが、簡単におさらいすると明治維新の時の日本の人口は、約3300万です。日露戦争では4700万人。そして、2004年のピークには、1億2000万人になりました。このように明治維新以降、日本は急激に人口が増えていったのです。そして、ピークをむかえた日本の人口は、今後同じペースで落ちていきます。2050年には、1億人を切って、約9500万人までいくと予想されていますし、2100年には、約4700万人にまでなってしまいます。
この人口減少により、数々の問題が出てくるのですが、そのいくつかの例をお話したいと思います。人口は減ってしまうということで、お年寄りを支える現役世代への負担が大きくなっていきます。1950年は、10人で一人のお年寄りを支えていました。1990年には、5.1人で支え、2005年では、3人に一人になってしまいました。そして、2020年には、1.9人、2050年には1.2人ということで、ほぼ一人で一人のお年寄りを支えなくてはいけなくなります。また世帯の単位が変わってしまった、ということがあります。皆さんが家族、世帯と考えると、夫婦がいて、子どもがいる世帯を思い浮かべると思います。この一般的に言われる世帯の数はどんどん減ってきています。では、何が増えているのかというと、単身者世帯です。最近では、独居老人や孤独死などの問題から見ても分かるように、お年寄りの単身者も増えています。一人親と子どもの世帯も増えています。つまり、シングルマザー、シングルファーザーです。これは離婚率が上がってきていることが大きな原因です。あともう一つ日本が抱える大きな問題に、鬱病があります。現在、鬱病患者は100万人を超えています。不安と恐れが日本に広がり、心の病が猛威を奮っているのがこの日本なのです。しかし希望もあります。心の問題というのは、その人の心の状態、とらえ方などを変えることにより、治ったり元気になることが可能だからです。
こういった、人口動態の変化によって引き起こされた問題から、家族や世帯の繋がりが変化し、心の病が蔓延してきています。そういったことを解決しようとソーシャルな活動やNPOが世に出てきていて、その一つが私のやっている活動「NPO法人ブラストビート」です。現在、私がNPO法人ブラストビートで挑戦している課題として、高校生などの問題があります。財団法人日本青少年研究所が2009年にやった『中学生・高校生の生活と意識』の調査で、2人に1人が「自分は人並みの能力はない」と言い、3人に1人が「孤独を感じる」と言っています。また、5人に3人が「自分はダメな人間だ」と思っていて、5人に4人が「なんだか疲れている」。そして5人に3人が「自分が参加しても社会は変わらない」と言っています。実際に高校生とあっていても、こういったやる気や自己肯定感の低さを感じることは多いです。そういった高校生の心に火をつけて、チャレンジしてもらうプログラムがブラストビートなのです。 そこで、ブラストビートの話しをしたいところなのですが、ブラストビートは大きく自分の人生とも関わるので、まずは自分の人生の話からさせてください。
自分が事業に失敗しても「心配するな。お前は好きなことをやってろ」と言う親
私は昭和53年生まれの34歳です。名古屋出身で、4人兄弟の長男として生まれました。
中学校時代は落ちこぼれのいじめられっ子でした。学校も大嫌い、勉強も大嫌いで、よくさぼっていましたし、成績も全学年でもワースト5には常に入っていました。
そんな私が大きく変わったのは、高校の時にバンドに目覚めたことでした。これをきっかけにバンドのベーシストを約10年続けることになります。高校も大嫌いだったので、あまり行っていなかったのですが、バンド以外で一つだけ一生懸命やっていることがありました。それは、音楽イベントを自分で主催するということです。高校生ですが、自分でライブハウスに電話をかけて、「高校生ですけど、貸してください!」と交渉して、会場をおさえて、そこからポスターやチケットなども手作りをして、音楽イベントを0から作ることをやりました。そこで、イベントでお金を稼ぐ喜びや仲間と協働するパワーなどを知りました。一回開催した時に、ライブハウスの大人から「こんなにお客さん集めてすごいな!」などと褒めてもらったことが嬉しくて、味をしめた私は高校時代に5回ほど音楽イベントを主催しました。
この高校時代に仲間や大人、との深い繋がりがあり、たくさんのチャレンジをしてきたことが今の自分を作っていると思っています。
高校を卒業した後は、大学に行く頭も気もなかったので、フリーターバンドマンの道を歩むことになります。アルバイトは掛け持ちなどもしていたこともあり、生涯で30種類ほどの経験をしました。道路工事から、パチンコ屋さんの定員もやっていますし、水商売としてパブの定員やキャバクラのボーイもしていたことがありました。日雇い労働者として、工場で働いていたこともあります。そんなたくさんの仕事を経験したことで、本当に多様な人達と一緒に働き対話してきました。そこでいろいろな価値観や考え方を吸収できたことは、今でもすごい財産になっています。
そんなアルバイトと同時平行で、バンドも一生懸命やっていました。それが実り、東京のインディーズ事務所に所属できることになり、名古屋から上京することになります。このことがきっかけで、今でも東京にいるわけです。その後、バンドの人気も出てきて、CDやDVDを何枚も発売したり、札幌から熊本までを回る全国ツアー、渡米なども経験することができました。バンドの最後のほうは、なんとか一人で飯を食べるだけのお給料をもらうところまではいきました。
メジャーデビューの夢が近づいてきたな、と思った矢先の2004年(当時24歳)に東京にいる私に父親から電話がありました。私の父親は小さな会社をやっていたのですが、その会社の事業がうまくいかなくなり、住宅ローンの未納を続けたために、実家が競売にかけられると言うのです。父親は「実家が無くなるからビックリしないように伝えておく。しかし、お前は自分のやりたいバンドの道を続けていい」と言って、電話を切りました。そこで、私は今まで自分を振り返る機会を得ました。四人兄弟の長男として生まれ、下には妹が三人いること。そして、その内の二人はまだ高校生だったこと。今までの人生が自分のことだけしか見ていなかったこと。家族に迷惑はかけてきたが、恩返しというものは一切できていなかったこと。そして、また、「お前は好きなことをしろ」と親が背中を見せてくれていること。音楽のこと。バンドのこと。自分の実力のこと。云々と、それからすぐには決断は出ず、半年以上悩み苦しみました。
そこで、決めた結論が、バンドは脱退し、ビジネスの世界にいこう。ということでした。高卒で学歴もなく、バンドしかしていないのですごく不安でしたが、親に恩返しをしたい、家族を守れる男になりたい、そして自分の可能性を信じたい、ということでの決断でした。
しかし履歴書で書ける学歴は高卒、資格は中型自動二輪(バイク)免許ぐらい。たくさんの応募しましたが、ほとんど面接を受けさせてももらえず、面接してもらえても面接官に目の前で鼻で笑われました。「やはりこの社会は紙一枚で計られるのか」と悔しい思いを味わいました。でも私は諦めず挑戦し続け続け、インターネット広告代理店でアルバイトすることができました。
それと同時にビジネスの基礎を学ぼうと思い、大前研一さんが立ち上げたアタッカーズ・ビジネススクール(以降ABS)を受講することにしました。父親から借りた大前研一さんの「質問する力」という本を読み、衝撃を受けたからでした。自分は以前、髪型をモヒカンにし顔にピアスを数多く開けることで、社会に抗議しているつもりでした。でも大前さんは、そんな見た目だけの抗議ではなく、論理的な文章で今の社会に対する疑問を提示し、それを解決しようとしていました。すごくかっこよく見えたのです。そこで入塾を決意し、親戚などに頭を下げて50万円というお金を集めました。当時ABSの受講料が一講座25万円だったのですが、「一講座では足りない。これまでの遅れを取り戻すためには人の何倍も努力しよう」と思って、一講座でも大変なところを二講座受けることにしたのでした。
そこからは必死です。ビジネス用語も基礎も何もありません。BtoBとかBtoCとか何のことかわからず、ABCだと思い「AtoBはないんですか?」と聞くレベルです。電子辞書を片手にビジネススクールに通いました。受けた後の講座は全て録音して振り返り、トイレやお風呂の中でもビジネス書を片手にがんばりました。そんな必死さが伝わったのか、講座が終わる時に、当時ABSの統括責任者だった方から、WEBマーケティング担当の事務局スタッフとして誘われたのです。渡りに船でした。今まで、有料で受けていた講座をスタッフとして受けることができ、また事務局として大前研一さんやその周りの優れた方々から学ぶことができ実践を詰むことができました。
そして、自信をつけた2006年6月(27歳)の時に、塾で学んだマーケティング施策を企業に提供する会社、株式会社フィールビートを立ち上げました。バンドから引退するための脱退ライブをしてから14ヶ月後のことでした。社名は、バンドのベーシストであった自分を忘れないために、「Beatを感じて生きていたい」ということで決めました。
運命の出会いは突然やってきた
フィールビートは、新規事業の立ち上げや、広告キャンペーンなどの仕掛け、WEBサイト制作などの需要で、スタートはうまく切れました。(その後に何度かつぶれそうにもなっていますが)そこで少し時間的余裕が出ててきた2007年に、国際協力をしているNGOとご縁ができ、カンボジアの孤児院の子ども達に絵本の読み聞かせ文化を広げるプロジェクトや、フィリピンの小さな島に小学校を作るプロジェクトなど、いろいろな社会貢献にチャレンジしていました。やりがいもあるし、自分自身の成長も実感できました。しかしその一方で、自分だからこそできる活動があるのではないだろうかとも思い始めていました。
そのときに、私に運命の出会いが訪れました。
2009年の夏でした。自宅でお風呂上がりに、何気なくテレビをつけた時に目に飛び込んできたものが、アイルランドのロバート・スティーブンソンさんが立ち上げた「ブラストビート」という、高校生向けの教育プログラムでした。テレビのドキュメント映像の中で、学校に興味がなかった高校生たちが、会社をつくり音楽イベントを立ち上げその利益の25%以上を寄付することで、自分に自信を持ち未来に希望を持っていく様子が映し出されていました。
私はこの映像を観ている間、ずっと涙が止まりませんでした。
それは、高校時代の自分と今の自分と、映像の彼らを重ね合わせていたからでしょう。番組を見終わった後、すぐに、ロバートさんに対して、メールを書いていました。すごく長い文面だったのですが、要約するとこういうことです。「私が、日本でブラストビートをやりたい。もしブラストビートをさせてもらえないのなら、自分で同じようなプログラムを立ち上げるだけのこと」と、脅しともとれるような文章をつけて送りました。しかも日本語で(笑)。
その後、このテレビ番組での放映がきっかけとなり、一ヶ月後にロバートさんが来日することになり、直接ロバートさんとお話させていただく機会を得ました。その中で、日本の代表に私がなることに決定したのです。2009年8月のことです。(NPO法人としての登記は2010年9月)。NPO法人ブラストビートは、「音楽×起業×社会貢献でチャレンジする10代を育てる」をミッションとしている社会教育プログラムとしてスタートしました。
学校の外の多様な大人が与えてくれる「生きる力」
プログラムの内容を具体的にお話しましょう。期間は3ヶ月~4ヶ月で、対象は高校生や大学生など若者達です。ステップが3つあります。まずステップ1として、高校生・大学生達がひとつの模擬会社(ミニ音楽会社)を設立します。登記はしませんが、会社名、会社理念、行動指針、会社のロゴなども決めますし、社長、セールス、財務、IT、デザインなどの役職も自分達で考えて決めていきます。日常では偏差値で評価されている学生たちも、自分が好きなもの得意なもので活躍する場、居場所ができるわけです。
ステップ2では、音楽イベントを自分たちで企画し集客、運営します。予算が無い状態から自分たちの会社理念に沿ったイベントコンセプトや企画をつくり、自分達の力でライブハウスやアーティスト交渉、広報や集客、スポンサー集めなどをしていきます。学生たちが自分たちで企画しますから、我々大人が予想もしなかったようなイベントが出来上がることがあります。過去には、カフェ・レストランや商店街に特設ステージをつくり野外ライブをしたミニ音楽会社もありました。音楽イベントの当日は、受付からバックステージ運営まですべて自分たちで行います。ステージに立つわけではなく、イベントのプロデュース、オーガナイズする側、裏方を経験するわけです。
ステップ3では、利益の寄付です。チケット売上から出る利益の25%以上は、自分たちが選んだNPOやNGO、地域などに寄付をしなくてはいけません。どの団体、地域に寄付するのかも自分たちで決めます。決めるために寄付先に実際に出向き、受益者の方々と実際に話をするわけです。自分たちがやろうとしていることが、だれのために役立つのかということを実感してもらうためです。また音楽イベントでは告知の段階でもイベント当日でも、寄付先の団体のことにも触れます。これら一連の活動を通じ、「社会で働くこと」「社会に還元・貢献していくこと」を高校生・大学生の間に学べるプログラムになっています。
学生をお客様扱いしないから心でつきあえる
では、実際にどうやってプログラムを進めているのでしょうか。ブラストビートの一つのプログラムの単位は、約10人です。その約10人に対して、先生が教えるような一般的な教育の形は取っておらず、ブラストビートは「メンター」という制度をつくっています。メンターには、社会人メンターと経験者メンターがいます。社会人メンターは、昼間は会社などで働いている方がメインで、平日の夜や土日を使って学生達に寄り添うように指導してもらっています。社会人メンターの職種は、起業家もいれば、大企業の方もいますし、官僚、政治家、クリエイター、アーティストなどさまざまです。最高齢は71歳でした。
経験者メンターは、過去のブラストビート経験者で、大学生が多いです。高校生からみるとまっすぐ上の先生のような感じではなく、どちらかと言えば斜め上のような関係で、相談しやすく、プログラムのこともよくわかっている頼りがいのある存在です。
これらのメンターが4~5人でチームとなり、学生たちのミニ音楽会社の会議に出席することにより、問いや気づきを促しながら、学びをデザインしてきます。
ブラストビートにおいて、最も重要なのが、彼らメンターやメンバーの多様性なんです。
高校生や大学生は通常、偏差値や経済的な事情などで区切られた学校に行っています。つまり自分と同じような環境で育っている人間とばかり出会います。違う学年の生徒、学生との接点もそう多くありません。それに接点のある大人といえば、先生か親くらい。そんな中、学校や塾、家の往復をしているだけでは、多様な人間関係から学ぶ機会がごっそりと抜け落ちるのも無理はありません。それが昨今の子ども達の現実なのです。その一方、私が高校生の時は学校は嫌いでしたが、アルバイトや音楽イベントを開催し、多くの大人と社会に出て接し学んできました。この経験が自分の「生きる力」を育てたと思っています。その実体験から、多様な人間関係から学べるメンター制度をつくり、日本に元々ある相互扶助の文化に近い形でプログラムを作りたいと思いました。
このプログラムでは、メンターには無償で関わってもらっていますし、学生は無料でプログラムに参加できます。まったく無償、無料にした理由は2つあります。1つは、日本全国に広げるため、2つ目は、深い学びを得るためです。このプログラムを立ち上げた時に私は、この運動を日本全国に広げたいと思いました。広げることに決めました。それを実現するためには、経済的理由で参加できない学生を作らないよう運営コストを抑える必要があると思いました。なので無償、無料にしました。
2つ目の深い学びですが、もし学生たちからお金をもらい「お客様」にしてしまえば、変な気を遣ったりする可能性が出てきます。このプログラムから深い学びを得るためには、メンバーもメンターも本気で心を裸にして向かう必要があります。時には「やりたくないなら辞めろ!」などという言葉をメンターが学生たちに向けて放つことがあります。そういった本気のやりとりができるのも、学生たちが「お客様」でないからです。
また無料なので学生が自分の意思で参加できます。最近の若者は自分で意志決定する機会がすごく少なくなっていると思います。親や先生の言うことを聞き、言われた通り動いているように思います。でもそれでは、自分事にならず、学びを浅くしてしまう可能性があります。そこで、ブラストビートは、親や先生がNoと言っても、自分で意志決定し参加できる場にしたいと思いました。
お金を取らないとメンターのコミットメントは下がるのではないかと思われる方がいるかもしれませんが、実はその逆です。メンターには週に1回のミニ音楽会社の会議に出席してもらっていますが、プログラムが進むにつれて、学生達の可能性に気づき、モチベーションが上がり、会議以外の時間も学生たちに寄り添ってくれる方が多くいます。中には、会社の休暇を取って自腹でレンタカーを借りて、被災地の石巻市へ高校生たちを乗せ往復したメンターもいました。この事例からも分かると思いますが、メンターは学生たちを愛してしまうのです。
メンターをしてもらう上で大事な思想の一つに「失敗から学ぶ」ということがあります。現在、学校などの既存の教育プログラムの多くが、どんな学生でもある程度のラインで成功体験を積めるように設計してあります。ですから失敗を積む機会が少なく、大学生になると失敗を怖れる、リスクを避ける傾向が強まっているように感じます。失敗や挫折のない人生を送れる人などほとんどいないわけですから、そのまま社会に出てから初めての失敗、挫折を経験することになります。社会、会社のプレッシャーの中で失敗をすることは、失敗に免疫がない若者には致命的なトラウマになる場合があります。「失敗を許容しない社会」の存在も大きな問題だと思っています。
若者にたくさんの失敗の機会も作って、リスクを取ってチャレンジできる人材になってもらいたい。そのために、メンターには学生たちが小さな失敗をしそうになっても余計な口出しをせず、寄り添い見守ってもらうようにしています。
おもしろいのはこうしたメンター活動を通じ、メンター自身も失敗を怖れている自分に気づくことがあります。メンター自身にとっても学びの体験になることがあるのです。これが、失敗を許容する社会づくりに繋がると信じています。
「学生のままでいたい」から「社会に出て働いてみたい」へ
さて、ではそのブラストビートのプログラムを経験した学生たちがどうなるかをお話したいと思います。とても難しいチャレンジをする負荷の高いプログラムなので、その分変化も大きいものになることが多いようです。「自分らしく生きる力」をつけてもらうのがプログラムの目的。では具体的にどのような成果を得ることができるのか。
実は、得るものはそれぞれに違います。多くの学生は、チャレンジすることの楽しさを知り、新たな自分のチャレンジに進んでいきます。現在、若者の間で減少傾向にあるといわれる海外留学や、企業のインターンシップなどに挑戦する学生も多くいます。中には、学生の間に起業した強者もいます。またそういった学生に感化され、メンターの中には自ら起業した人もいますし、転職して更なる飛躍を目指すメンターもいます。そういったチャレンジを推奨し、みんなで応援していく文化こそ、ブラストビートが大切にしていることです。私も常に背中を見せられるように意識をしているおかげで、すごく成長させてもらっている一人なのです。株式会社とNPOの両方をやることによって、学生に伝えられる言葉が増え、自分の学びが深まるだけでなく、企業に社会貢献活動のアドバイスをするというビジネスもうまく回りだし、多くの人を繋げたり仲間を応援できるようになってきました。今の時代だからこそ、パラレルキャリアで、家庭と会社とNPOなどもう一つのコミュニティを持つことの意味を実感しています。
最後に、一人の学生が言った言葉を記載します。「ちょっと社会に出て仕事をしてみたいなって思うようになりました。少し怖いですけど(笑)」
今の世の中、高校生や若者たちは、将来や社会に希望をあまり持っていません。彼らに聞いてみても、「ずっと学生のままでいたい」と言います。それは、彼らの出会ってきた大人が、楽しんで生きていたり、キラキラしている背中を見せられていないからだと思います。それもそのはずで、通学途中の満員電車で社会人のため息と舌打ちを聞いて、過ごしている学生も少なからずいるのですから。そういった中で、「社会に出て働いてみたい」という変化が起こったことは、本当に嬉しいことです。未来は楽しいかもしれない、自分で楽しくできるかもしれない、と希望を持った瞬間なのですから。その言葉を聞いて、こういった若者たちを日本中で増やしていこうと、心に決めました。
ちょっと余談ですが、学生たちのアベレージとしては、80人~100人くらいの入場者で、20万円くらいの売上げに対して、7~10万円くらいの利益が出て、寄付できるくらいです。また中にはライブ開催までいかないチームもありますが、それも学びとしてしっかりと振り返ってもらっています。
ブラストビートの活動は2012年で3年目を迎えました。5月にスタートしたプログラムでは、福島や京都を含む、13チームが立ち上がりました。参加者は42大学、16高校から100名を超え、メンターも60名もの方々に参加いただいています。また学校の総合学習などの時間を使ってやるビジネスゲーム形式のキャリア教育の授業カリキュラムも作り提供しています。対象を中学校まで落として学校の中からも変化を生みだそうとしています。
最後にビジョンを語らせてください。
3年前の立ち上げの時に決めたことがあります。
「ブラストビートをやりたい!」と思う高校生や大学生らがいたら、山奥であろうと、島であろうと、実施できる状態までもっていく。そのために、日本全国にブラストビートを広げていく、と。そして繋がりが希薄化し、課題が噴出している日本で、ブラストビートの機会を通して、多様な人たちを繋げ、学びあい、支えあい、チャレンジし続けられる環境を生み出していこう、と。
そういった繋がりが繋がりを生み、自分が受けた恩を、後輩や次の世代に送っていく「恩送り」をこの社会に広げていきたい。それを当たり前にしていきたい。それこそが、自分が死んだ後も残る、未来の子ども達に残せる本当に必要なものではないか、と思ったのです。そしてそれを自分の一生の役目として、それが私の恩送りとして、残りの人生を生きていけたら幸せだ、と思ったのです。
これからの激動の時代には、学び続け、変化し続ける人材が必要となります。そのためには、一人ひとりがたくさんのチャレンジをし、失敗体験や成功体験をたくさんつみ、“心の器”を大きくしていく必要があります。そういったプロセスを経験し、その先に「私は私で良かった」と生きる喜びに満たされる。そんなプログラムに「ブラストビート」をしていきたいと思っています。
ブラストビートのビジョン。「変わる、ジブン。変える、ヨノナカ」
他人と過去は変えられません。しかし、自分と未来は変えられます。絶対に変えられるんです。
著者プロフィール:松浦貴昌
16歳~26歳までバンドマン(経験職種は30以上)。その後14ヶ月間ビジネスを勉強し、マーケティング会社を立ち上げる。その傍らでNGO・国際協力をしながら、2009年よりNPO法人ブラストビートを立ち上げる。
カンボジアでの絵本の読み聞かせや、フィリピンで小学校を寄付するなど、国際協力に携わる。
FASID「NGOディプロマコース」、ETIC.「GS教育社会起業家・NPO支援プログラム」、経済産業省「キャリア教育コーディネーター講座」など修了。
今は、どう見ても好青年にしか見えない松浦さんがモヒカンで顔中ピアスのパンクロッカーだったとは驚き。逆に言えば、今は相当ひどい格好をしている若者でも、心の中に光るものを持っている可能性があるということ。そうした若者の心の中の光を輝かせてあげるということも素晴らしい活動だと思います。
あと若者の学びを支援しているつもりだった大人が、いきいきし始めた若者に刺激されて自分の人生を見つめ直すことがあるというのもおもしろい。大海原に飛び出すにはかなりの勇気が入る。もし失敗すれば立ち直れなくなる可能性もある。それならばまず飛び出す「稽古」をする、シミュレーションの中で鍛える、という方法も有効なのかもしれないなあ。
松浦さんのモットーは「変わるジブン、変えるヨノナカ」。他人と過去は変えられないけど、自分と未来は変えることができる。素晴らしいビジョンだと思う。
お知らせ:
松浦さんも参加していただいて大きな反響を読んだTechWave塾12期のカリキュラムを大阪で再現。TechWave塾大阪5期「自分らしく意義ある仕事で生計を立てる」塾生募集中。(湯川鶴章)