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日本のインターネット業界の最先端を走り続けてきた加藤さん。加藤さんが関わった会社はなぜ急成長し、なぜ急にブレーキがかかったのか。なぜ加藤さんは最終的に日本でなくシンガポールで起業する道を選んだのか。長い文章ですが、非常に示唆に富んだ文章です。ぜひ最後までお付き合いください。
ゲストブロガー:
エンジェル事業家
LENSMODE PTE LTD
加藤順彦ポール @ykatou
天動説による古代の地球儀をみたことがある方も多いでしょう。子供の頃に百科事典や学校の副読本に載っていました。海の向こうの、そのまた向こうには断崖絶壁があって、そこまで行くと真っ逆さまにあの世に落ちちゃう、四隅で象が背負ってる、箱庭模型のようなアレ。
『僕は2006年の秋まで、その世界にいたんだな』と思うことが、今でもままあります。あの頃までは、日本以外の国で起こっていることは、私にとっては絵空事…まるで『また別の世界』での出来事のように観えていたのです。
そして、そんな自分にとっての日本という国は、まさに安全な箱庭だったんだ、なと気づかされるのです。
私が社会に出た89年は、史上空前、未曾有の大バブルの時期、まさにJapan as NO.1の頃です。
それから20年弱、私は経営者として他国のプレーヤーなど全く眼中におくことなく、日本の中だけで、社員を、御得意先を、仕入先を、協力会社を見つけていました。
つまりは、それだけで事足りていたのです。それだけ日本という国は潤沢すぎる内需=バブルの遺産があったと言えるのかもしれません。
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私、加藤順彦は先日44歳になりました。少し長いですが、最初に僕自身の半生について書かせてください。
ぶっちゃけ大阪育ちの『エエ氏のボンボン』(御金持ちの息子)として育ちました。大学に行くまで、ナニ不自由なく階段を上っていたと思います。
86年、大学一年生の夏に真田哲弥氏(現:Klab株式会社 代表取締役社長)西山裕之氏(現:GMOインターネット株式会社専務取締役)と出会い、いわゆる学生企業に参加、その後89年に株式会社ダイヤルキューネットワークの起業に参画したのが、わたしのベンチャー人生の始まりでした。
ダイヤルQ2とは民営化されて間もなかった日本電信電話=NTTが89年に開始した情報料金回収代行サービスのサービス名称です。同社はこのダイヤルQ2を使ったコンテンツ・プロバイダでした。
これまでの通話料金だけではなく別途の情報料金を通信キャリアが代行回収するというモデルが、アメリカで大成功しており、また日本で開始されると知って立ち上げました。
読みが大当たりし、風を掴んだ同社は、創業1年で社員70名、月商1億へと急成長しました。バブル絶頂期にも相まって高度情報化社会=マルチメディア時代の旗手とまで持ち上げられました。同社だけではありません。ダイヤルQ2は「電話回線を通じて情報を流通させる」という日本で初めての試みを、僅か一年足らずで1千億円以上の市場にしたのです。私もメンバーも有頂天になっていました。
ダイヤルキューネットワークはしっかりとした番組企画を提供していたのですが、一方で虚偽の企画書を出して審査が通ってから番組をツーショット回線に変えてしまう業者も大量に横行しました。市場の爆発的な成長と同時に、こうした負の部分も社会問題化していったのです。ただ私たちは自分たちがまっとうなビジネスをしていたので、そうした問題を対岸の火事として眺めていました。
ところがNTTは、こうした不良業者を排除する目的で、料金の支払サイクルを改定したのです。91年初頭、月末締めの翌月払いだった支払サイクルが、翌々々月払いに引き伸ばされました。不良業者のほとんどは零細業者でしたので、とたんに給料や機材のリース料が支払えなくなりました。この突然の変更で、思惑通りに不良業者が次々と潰れていきました。
かたや、私たちも所詮は学生が作った零細業者です。規模が大きく、急激な膨張をしていた最中だっただけに一溜まりもなく、改定に連座する格好で91年4月末あっけなく破綻してしまいました。
私は事業の受け皿となってくれた徳間書店の関連会社の社員となりましたが、翌92年8月、初めて自らが代表となり起業しました。
雑誌広告専門の広告会社、有限会社日広。 (現:GMO NIKKO株式会社)
正直ダイヤルキューネットワークのときは、会社ごっこのノリで、ゲーム感覚で会社に関わってました。そのことの罪深さや、人を雇用する責任にも気付いていませんでした。破綻を経て、痛みが身に沁みていた僕はこの会社を資本金300万円、従業員2名という、身の丈に合わせてスタートすることにしました。人を雇うということは、それだけで原罪がある。だから小さな会社で、出来るだけ小さく、責任が取れる範囲で会社を設立しようと思ったんですね。
最初の3年間弱は、ツーショットダイヤルの雑誌広告のみを扱っていました。94年頃からでしょうか、通常の雑誌広告業務と平行して、通信回線とCTI(コンピュータ・テレフォニー・インテグレーション)を組み合わせた雑誌広告もパソコン雑誌に掲載するようになってました。
丁度その頃、米国の軍用技術が民用化され、インターネットとして自由に通信ができるようになると、その出稿先のパソコン雑誌にそのことが相次いで掲載されたんです。
一目見て、一昼夜考えて、
これから、インターネットの時代がくる。
そう感じました。
次世代の情報提供サービスは、インターネットを通じてやれるのではないか?
プロバイダーが情報提供サービスを併用して提供すれば人気が出るのではないか?
もちろん私以外にも、そんなふうに考える人が数多くいました。CTIの世界の人たちは、そうしたビジネスセンスに長けている人たちが多かったので、そうした人たちは次々とインターネット・サービス・プロバイダ(ISP)業務を始めていきました。
私はツーショット以上にISP産業が今後急成長すると読み、ISPの販促広告の取り扱いに大きく舵を切りました。
程なくYahoo! Japan、asahi.comといったネット・メディアが相次いで立ち上がりました。インターネットそのものがメディア、広告媒体になり始めたのです。日広は98年、雑誌広告からインターネット広告に乗り移りました。しかし当時はネット広告マーケットはまだ超ニッチ。周囲の理解も得られず、99年は前年16億あった売上が9億まで減ってしまい少し焦りましたが、もうネット経済圏の大成長を確信していました。
そして、急速にビットバレーを軸にしたネットバブルがやってきました。新規顧客が次々と増加。01年2月のバブル崩壊後も順調に従業員、売上げが増え、06年度には売上高103億円まで成長しました。日広はインターネット広告産業の急激な成長の追い風を完全に掴んだのです。
御取引先の中から次々と上場企業が出始めました。私もその中から有望なベンチャー企業への投資にも力を入れました。(当時34社に投資し、結果8社が上場しました。)
時は、まさに『大公開時代』。新しく若きベンチャーの時代の到来!と意気込んで明日を視ていました。
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ところが、2006年1月のライブドア事件を契機にインターネット業界が、いやベンチャーの市場全体が暗転しました。NIKKO(当時)のクライアントはネットベンチャー企業が大半でした。ライブドア事件後には、そうしたネットベンチャーの株価が下落し、信用収縮と相まり、宣伝費を削る動きが巻き起こりました。さらに同じ時期にグレーゾーン金利の過払い返還が可決されました。当時、NIKKOはSEM(検索エンジンマーケティング)に力を入れており、外資系大手の消費者金融が最大顧客でした。一斉に消費者金融が出稿を取り止め、御得意先も日本市場から撤退。数多くあった新興のマンションデベロッパーも姉歯事件以降、建築確認が行政から出なくなり、資金繰りが極端に酷くなっていました。さらに当時の優良顧客であった短期業務請負業者も、様々な理由?により、事実上の廃業にまで追い詰められ、広告も止まってしまいました。
遂に、NIKKOは06年3月度には月商10億円超あった売上が、同年末には一気に月商5億強にまで落ち込んでしまいました。
万事休す。地獄をみました。
仕事上のライバルに負けたというのなら、くやしくてもまだあきらめがつきます。しかし、この売上げの下落は、競合との競争に負けたのではなく、外部要因による市場消滅が原因でした。企業間競争とは関係のない世界の影響を受けた結果でした。不条理を強く感じました。ベンチャー潰し、官製不況ではないか、とも思いました。ともあれ、私は己の不徳ゆえNIKKOの経営に行き詰りました。そして07年末、創業以来の取引先であり、親友でもあった熊谷正寿さん(GMOインターネット)に会社を託す決意をしました。
06年の様々なルール変更は、内需の縮小が原因中の原因になっているのではないかと思います。パイが縮小する中でイス取りゲームが始まって、ルールを決める人たちの間で保守的な傾向が出てきたのではないでしょうか。その結果、ベンチャー企業が排除されたのだと思います。政官財の複合プレーに追いやられ、世論としても「若者の起業ほど危ないものはない」という雰囲気も蔓延してしまいました。
今後も日本の内需縮小は止まらないでしょう。こうした状況が続く限り、ベンチャー企業を育む社会にはなりにくいのではないでしょうか。米国のFourtune500といった指標には創業10年以内のベンチャー企業が何社も名を連ねています。しかし日本の日経225などの指標に創業10年以内のベンチャー企業が数多く含まれるようになると思いますか?
そんなときに目にしたのがこのグラフです。
これは各国GDPの2005年と2030年の比較した成長予想グラフです。購買力の変化、一人当たり購買力平価(PPP)がどれくらい成長するのかを表しています。BRICsは成長地域のように言われるけれど、実はブラジルもロシアも官業中心で購買力は伸びていない。天然ガスや石油、石炭を国営企業が掘り進めても、国民は少しも豊かにならない。儲かるのは、国の指導者だけなのです。ロシアもブラジルもGDPが大きくならないのが見えている。ところが中国・インドはブラジル・ロシアと違い、ひとりひとり生活者のGDPが伸びているんです。わたしが手掛けた広告代理店のビジネスは、消費財の成長、クライアントの消費財の伸びで大きくなってきた。
私はアジアに希望の火を見ました。
かたや日本は少子高齢化で人口がどんどん減っていきます。今は、平均年齢が44歳ですが、毎年0.4歳ずつ上がっていくんです。既に日本は、2人に1人が50歳。2055年に、日本の人口は8,933万人になり、そのうち労働力人口は4,500万人になります。
私は、それまでに追い風を受けるだけで成長できることも、逆風になればあっと言う間に倒産することも、身を持って経験していました。追い風の吹く場所に立っていたい。追い風の吹く場所で勝負しようという若い人たちを支援したい、と思うようになったんです。2008年7月、NIKKOの経営から退くタイミングで、アジアに、その中心のシンガポールに、出たのです。
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日本でベンチャーとして起業しても、政官財の複合的な要素で廃業に追いやられるのであれば、日本の外で成功して日本に戻って日本に貢献するというやり方のほうがいいのではないか。
事実、韓国も中国も台湾もこのやり方で多くの起業家を生んでいました。中国語では海外に出て成功して中国に貢献する人のことを「ウミガメ」と呼んでいます。ウミガメのように大きく成長して、故郷に卵を産みに帰ってくる、という意味です。百度のロビン・リーさんやアリババのジャック・マーさんは新世代の華人にとってはウミガメ族のシンボル的存在です。
シンガポールは移民の国です。
500万人の人々が住んでいるのですが、75%が国民、25%が外国人です。米国では、米国の主流社会に溶け込めない外国人だけが集まる居住地域を見かけることがありますが、シンガポールではありとあらゆる民族が一緒に生活しているんです。外国人にとって世界一やさしい国だと思います。シンガポールは最も外国人が成功する可能性が高い国であるといわれています。
またそもそも英語が母語ではないため、シンガポールの国民でもあまり英語は上手くない。ただ英語は第一共用語ですので、常識としてだれもが身につけています。でも英語がへただからといって、ばかにされることがないんです。日本ではなく、そんなシンガポールに足場をおいて世界にチャレンジしようという若者を支援したい。それをこれからのライフワークにしたい。そう思うようになりました。
そして移住以降の2年半、私は既に幾つかのシンガポールで起業した日本人経営の企業に資本&経営に参加しています。
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実はインターネット産業やサービス業だけではなく、アジアでは、喫茶店の店主から、数千人規模の工場の経営者まで、多くの産業で日本人もまた孤軍奮闘しています。韓国や台湾と比較すると、そうした人たちの人数はまだまだ少ないでしょう。ですが彼らは不退転の決意で世界に飛び出ています。そういう人たちが次に続こうという日本人のロールモデルとなればと思っています。
なぜ、かつてのNIKKOがあそこまで短期間に急成長できたのか。
それはインターネットの広告産業自体が急成長したからです。私は成長の風を掴むということが、いかに大事であるか身を持って体験してきました。
ベンチャーと中小企業の違いは一つしかないと思います。成長を志すか、志さないかです。もしもあなたが経営者で、若きベンチャーで、これから成長を志すのであるなら、成長する市場の追い風を受けるべきだと思います。どこに風が吹いているのかを知り、風を掴むことが大事なんです。極論、背中に追い風を受けていれば、止まっていても前に進むんです。
反対に逆風になれば、前へ進むことすら難しくなる。これからの日本はベンチャーには逆風が続くと思います。前進できなくもないとは思いますが、成長を志すのならば追い風の吹いているところに立つべきだと思います。そして大きく成長したあとに、日本に戻り日本の社会に貢献すればいいと思います。そうすることが日本に変革を起こす上で、もっと効率的だと思っています。
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地球は丸かった。天動説ではなかった。世界は繋がっていた。
日本を飛び出てみましたが、アジアの果てまでいっても断崖絶壁はありませんでした。私たちは海を渡り、大きな世界を市場と見出せるのです。
「ウミガメ」が一つのロールモデルです。私はシンガポールの地から、沸騰するアジアの各地から、まるで自らが外圧となったかの如く、外から日本の若きウミガメ候補にネットを経て、外から揺さぶり、刺激を与えているつもりで日々生きています。
そして微力ながら、日本からも後進の手本となるような「ウミガメ」が生まれることに寄与したいと心に決め行動しています。
そのためにこうやって文を書いたり、お話ししたり、様々なアジアの国に出て起業している日本人を訪ねて歩いています。
ウミガメ候補たちの背中を押し、鼓舞し、ともに悩み、成長を勝ち得ていくことに、私は残りの半生を賭けたいと思っているのです。
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