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主張を180度転換したのでボツにした原稿です。何かの役に立てばと思いアップします。未完成原稿ですので、未確認情報が含まれます。ご注意ください。
▼アマチュア作品はプロに勝てるのか
しかしこうしたアマの表現物がプロの表現物に勝つことが
できるのだろうか。今日、プロのカメラマン、ライター、ミュージシャンにこの問いを投げかければ、ほとんどのプロは「アマに負けるわけはない」と答える。
もちろん「勝てそうもないです」と気弱なことを言っているようではプロ失格なので、こうした答えでもちろん構わない。ただ本当に今後もそうした時代が続く
のだろうか。
多摩大学の公文俊平教授は、今日のプロによるアマチュア軽視と同様の傾向は過去の時代の境目にも存在したと指
摘する。中世から近代への移行期に農民を集めた兵隊が作られたが、こうした兵隊は、日本では武士、ヨーロッパでは貴族に当初は「百姓を集めた兵隊に負ける
わけがない」とばかにされていた。しかし銃を装備した近代軍隊の戦いの中では、個々人の剣術の腕前はまったく意味がなかった。戦いのルールが、個人戦から
銃を使った新しい形の団体戦に変わったのである。
産業化の局面では、靴や洋服といった製品を手作りするギルドの親方が大量生産の靴や洋服を「女子供が作った物に負けるはずがない」とばかにした。ところが現在、われわれの身の周りは大量生産の製品であふれている。手作りの製品を探すほうが困難だ。
今はまだ情報化社会に入ったばかり。これからより優れた表現のツールが次々と登場してくるだろう。そうしたツールの支援を得て、アマの作品はプロの作品に対し、量で凌駕し、質で肉薄するようになるのだろう。
ただ古い物差し、古い競争のルールで見る限り、プロはプロである。頂点に君臨し続ける。一人対一人の戦いというルールであれば、やはり武術を極めた者の勝
利である。今日でも、空手のトーナメントでまったくの素人が勝ち残れる可能性はゼロに近い。同様に靴という製品の分野でも、価格という物差しを除外し、芸
術性や品質という物差しだけで計れば、今日でもプロの靴職人の製品に軍配が上がる。
▼表現物の物差しは「質」から「共有」へ
表現物でも芸術性という物差しで計れば、今後もプロのクリエーターの勝利になるだろう。作家の浅田次郎さんは、ネット掲示板「2ちゃんねる」から生まれた
小説「電車男」があまりに話題になったため、実際に読んでみたという。「作品としては非常にレベルの低いものだった」と語っている。
ケータイ小説も、文章表現が稚拙であり、内容が陳腐である、という批判をよく耳にする。確かに文章は日常的な口語体で修飾語が少ない。1行1行の間にむだ
なスペースが多いようにも見える。内容も、援助交際や10代の妊娠といった少し過激な要素をちりばめながらも、どこにでもあるような単なる切ない恋の物語
である。
なぜ文学的にそれほど優れていると思えない作品が、これほど女子中高生に人気なのだろうか。
ケータイ小説に関し、ITジャーナリストの佐々木俊尚さんはネットメディアCNETの「ソーシャルメディアとしてのケータイ小説」と題したコラムの中で次のように語っている。
「本来、文学というのは、ひとりの孤高の作家がみずからの内面と向き合い、みずから作り上げた世界観と哲学を世間に問うという行為だった。だがケータイ小
説は、書き手の側も、読み手の側も、自分たちがひとつの『空間』を共有していると信じ、その『空間』に寄り添うかたちで小説をコラボレーションによって完
成させていく。文学が卓越した個人による営為であるのに対し、ケータイ小説は人々の集合知をメディア化したものである。
そのようなとらえ方をすれば、ケータイ小説の文体が陳腐で下手くそで、同じようなステレオタイプ的なプロットに彩られているのも当然である。なぜなら陳腐でステレオタイプなものこそが、若い読者にとっては『リアル』であるからだ」。
小説をコラボレーションする、とあるのは、作者がケータイ小説を書き進めながら出来た文章を次々とケータイサイト上で発表していく中で、読者からコメントが寄せられ、そのコメントを考慮して小説が変化していくというプロセスをケータイ小説が取るからである。
佐々木さんの言うように、これまでの文学とケータイ小説はまったく違うものなのかもしれない。小説は個人が作りだす芸術であり、ケータイ小説は作者と読者、読者同士をつなぐ仲介物、メディアなのかもしれない。
「ケータイ小説がウケる理由」の著者の吉田悟美一さんは、ケータイ小説は言ってしまえば「小説」ではないと言う。モバイルから生み出された全く新しいコン
テンツであるというのだ。また吉田さんは、さらに言えば「読書」でもない、と主張する。ケータイ小説は、モバイル・インターネットがもたらす「独特のコ
ミュニケーション文化」である、というのだ。
女子中高生にとって、ケータイメールこそが生活の中核を占めるコミュニケー
ションツールである。このコミュニケーションツールを使って恋愛などの悩みの相談をするというコミュニケーションスタイルがベースにあり、そのベースの上
で発展してきたのがケータイ小説という新しいコミュニケーション文化であるというのだ。
「ケータイ小説がウケる理由」の中
で著者の吉田悟美一さんは、「Deep
Love」というタイトルのケータイ小説を事例として紹介している。渋谷センター街で援助交際を続ける17歳の女子高生が主人公の物語だ。ケータイのサイ
トで毎週、1話(約1600文字)ずつ配信していたのが、女子高生の間の口コミで人気を集め、作者によれば、感想メールが毎日数百通は寄せらたという。そ
してその寄せられるメールの中にあった「実体験」の話などを基にストーリーを展開していった部分が多いという。
読者にして
みれば、自分が送ったメールが物語りに組み込まれるわけである。作者と一緒になって小説を作り上げたという共有感がある。読者にとっても「自分の作品」で
あるわけだ。ケータイ小説の書籍化は、読者が出版社に要望するケースが多い、という。「自分の作品」と感じるからこそだろう。そして、ケータイ上で既に読
んでいるにもかかわらず、一緒に作り上げた記念品として書籍化された作品を本屋で購入する読者が多いのだという。
こうして
見てみると、ケータイ小説は身の周りで起こった楽しいこと、困ったこと、おもしろいこと、うれしいこと、悲しいことを、友人とおしゃべりするのと、同じよ
うな感覚を読者に与えてくれるのだろう。芸術というよりも、おしゃべりと同様に「人とのつながり」の1つの形なのだろう。小説に関しても新しい物差しが登
場しているわけだ。芸術性という物差しではなく、おしゃべりのような意識の共有を持てるかという物差しだ。
どうやら動画と
いうメディアでも同様のようだ。コミュニケーション・デザイナーとして活躍する河野武さんは、マーケティング施策の中に積極的に動画を活用する一人だが、
河野さんのブログ「smashmedia」の「ぼくは動画人ではない」という記事の中で「ぼくは『動画』ってくくりがどうもしっくりきてなくて、ぼくの
やってるのは『ライブ』であって、極論、動画じゃくて音声だけのラジオでもかまわないとすら思ってるし、キモはチャット(というかリアルタイムな参加)に
あるとも思ってるので『動画』じゃないよなあ」と語っている。
もちろん動画を一方通行の情報伝達手段として活用するケース
はまだまだ多いのだが、「参加」「共有」という側面に注目した使い方をする人も増えてきているようだ。YouTubeやニコニコ動画に投稿される動画は、
共有を前提にしているものがほとんどだ。特にニコニコ動画は、動画上にテロップを自由に書き加えることができる。これはまさに動画をベースにした新しいコ
ミュニケーションの形なのである。プロの作る作品を超えるものを作りたいと思って多くの人がコメントを書くのではない。動画を囲んでみんなでワイワイ楽し
みたいだけなのだ。
天才靴職人の手作りの靴へのニーズが完全になくなっていないように、芸術性の高い小説や映画へのニーズはなくならないだろう。しかし一方で、現実味がある「空間」を共有できる形のケータイ小説やみんなでワイワイ楽しめる動画へのニーズが強まっているのだ。
小説や動画だけではない。あらゆる表現物に、人と人をつなぐ「空間」を作れるか、特定の感覚を共有できるか、という新しい物差しが登場しつつあるのかもしれない。
アマチュアが作った新しい表現物を、芸術性、質といった物差しで評価しても仕方がない。「共有」「つながり」という新しい物差しで評価すべきなのである。
序章 経済リワイヤリング-ボツにした未完成原稿vol.0
IBMが読む広告の未来-ボツにした未完成原稿からvol1
分断される消費者の関心-ボツにした未完成原稿vol.2
メディア消費の過渡期と3層並存論-ボツにした未完成原稿vol.3
テレビCM崩壊は日本でも起こるのだろうか-ボツにした未完成原稿vol.4
ニコニコ動画に見る日本のクリエイティビティの実力-ボツにした未完成原稿vol.5